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「衆志は城を成す」

2008年5月27日付 中外日報(社説)

十二日に中国の四川省で発生した巨大地震。最初に情報に接したのは、たまたま上京しての帰途、新幹線の車内に流されたテロップによってであった。「地震の規模はマグニチュード7・8、重慶市で五人が死亡」。だがその後、続々とテレビが報じ、新聞が伝える想像を絶するすさまじい災害の状況にただただ呆然とするばかりである。マグニチュードは当初の7・8から7・9ないし8・0に訂正され、犠牲者は数万人に上るという。

四川省は曾遊の地である。省都の成都は二度訪れた。四半世紀前の一九八四年には、成都北方の都江堰(とこうえん)市をも訪れた。その当時には灌(かん)県と呼ばれていたこの小都市が壊滅的な被害を受け、瓦礫(がれき)の山の廃虚と化した様子をテレビの画面を通して知るたびに心が痛む。灌県は滔々と流れる用水路が美しい清潔な町であった。

古い手帳を取り出して確かめてみると、灌県を訪れたのはその年の五月十三日のこと。「青城山、一○・〇〇上山、一七・〇〇下山。灌県柳河賓館三一二」とメモしている。その日の朝、成都から灌県に向かった筆者は、四川省社会科学院の道教学者である李遠国(リー・ユアングオ)氏と外事弁公室の一青年の案内によって、午前十時から午後五時まで道教の聖地である青城山の各所をめぐり、そして柳河賓館に一泊したのである。

灌県が一九八八年に都江堰市と改称されたのは、その町を北から南に向かって貫流する岷江(びんこう)に設けられた水利施設の都江堰にちなんでのことであり、都江堰には遠い昔にさかのぼる歴史が刻まれている。

紀元前三世紀の半ばの戦国時代、秦の蜀郡太守の李冰(りひょう)は岷江に治水工事を施し、下流の平野に流れる水量を調節することに成功した。李冰が工事を施したのは、まさしく今日の都江堰の地点にほかならない。

一九七四年の四月、都江堰の河床から一体の石像が発見された。高さは二・九メートル、重量感にあふれる石像であり、頭に冠を着け、両袖を前で組んでいる。そして襟の個所に「故(もと)の蜀郡李府君、諱は冰」と刻まれ、両袖の個所に「建寧元年閏月戊申(ぼしん)朔(さく)廿五日、都水掾の尹竜、長の陳壱、三神の石人を造る。水を珍(しず)めること万世なれ」と刻まれていた。

すなわち後漢の霊帝の建寧元年(一六八)の閏月、一日(ついたち)が戊申(つちのえさる)に当たるその月の二十五日、治水灌漑担当の尹竜と陳壱の二人が制作した石像なのであって、「珍」は「鎮」に通じ、永遠に川を鎮めてくれよとの願いが込められているのである。

「三神の石人を造る」とあるように、元来合わせて三体の石像が制作されたはずであり、事実、一九七五年の一月には、李冰石像が発見されたすぐ近くから●(すき)を手に持った高さ一・八五メートルの石像が発見されている。このように、李冰は後漢時代において治水灌漑の神として崇められていたのであった。

筆者が都江堰を訪れたのは青城山を参観した翌日の八四年五月十四日。その日、青城山をはじめとして周りを取り巻く山々は朝からの小雨に煙って新緑が一層美しく映え、岷江の豊かな水は西北の方角から押し寄せ、都江堰において二条また三条と水脈を分かちながら下流に向かって流れ下っていた。

京都嵐山の渡月橋から保津峡を望む光景にどこか似ていないではないが、その規模は格段に雄大である。そこから望まれた西北の方角こそ、巨大地震の震源地とされる■川(ぶんせん)県に当たるのであろう。

「震に抗し災を救い、衆志は城を成す(地震に立ち向かい災害を救い、大衆の意志は城を成す)」。これが今回の大災害に直面した中国政府のスローガンのようである。このスローガンが訴えるように、総力を結集して未曾有の困難に立ち向かってほしいと願う。そして、尊い命を奪われた多くの人々に対しては、満腔の哀悼の意を捧げたい。

●=插のてへんのない字

■=さんずいに文