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生命の尊さ自覚は人格の交わりから

2008年5月20日付 中外日報(社説)

ほとんどの人には「もう死んでしまいたい」と思った経験があるだろうが、キリスト教では自殺は明白な罪である。それは「自分の存在」の全体が神から与えられたもの、「自由」といえども神から委託されたものであって、他殺はもちろん、自殺も神への反逆だからである。

ところで生命は人間と世界を超えた尊い働きによって成り立つ、あるいは生命には人間を超えた尊い働きが宿っている、という感覚は多くの宗教に通じるものである。特にインドの宗教ないしインド起源の宗教には、人間と他の生物の間に質的な差別を設けずに生命を尊厳なものとする感覚が強い。

他方、ユダヤ教とキリスト教では、人間と他の生物は質的に異なったものであり、自然世界は人間の管理に委ねられたものだとする考えがあって、これが自然の収奪につながったのか、あるいは自然の愛護を促したのかは議論の分かれるところである。

一般論だが、草木に精霊が宿ると考える「未開な」人間の方が、実は「文明人」より生命の尊さに対する、より正しい感覚を持っているといえる。それは(しばしば迷信と結び付くとはいえ)彼らが自然に対して単なる「恐れ」ではなく「畏れ」の感覚を持っているということである。

こういう感覚を消滅させてきたのは近代である。生体は、客観的観察の対象にすれば、物質のシステムであり、そこで起こっている反応はすべて物理学的・化学的反応にほかならない。科学的知識は技術に応用され、経済と結び付く。生物の振る舞いはすべて刺激に対する反応であって、客観的認識と管理が可能であるという行動主義的心理学も登場した。事実、外部から客観的に観察すれば、生命やこころといわれる働きは、見えないというより存在しないのである。

そのような見方からは現実一般がモノとして認識される。しかし生命やこころの働きとその尊厳さは人間が自分の中で、また人格同士の交わりの中で実感される現実である。こうした現実経験から自然の見方も変わってくるのである。客観的認識と管理・支配だけが現実を扱う正当な方法だとはとんでもない偏見だ。

とにかく現代はなにもかも客観的認識と管理の対象に変えてゆくのである。学校の理科で自然の観察や実験が行なわれるのは結構だが、他方では自然に抱かれて樹々や風の語りかけを聴く時間があってもよいではないか。しかし現代は現実一般を認識と管理(処理)の対象に変え、これがすべてを商品化することにつながってゆく。

ところで、自殺肯定論者は、自分の命だから自分でどう扱おうと勝手だという。こういうところに現代人が自分自身まで処分可能な「モノ」と理解するようになったことが見えるのである。この理解はむろん正しくない。

そもそも勝手に処分できる「自分のもの」とは、買ったもの、自分で作ったもの、あるいは誰の所有でもないものを取ってきた場合だが、自分の命はそのどれでもない。何十億年の生命の連鎖があって、それを受け継いだ親からもらった身体があって、つまり生命があって、はじめて自分があるので逆ではない。そもそも生命は自分のものだと考えるのが誤りである。

しかし生命の尊さを自分の中に実感し、人格の交わりの中で確かめる文化が、科学と技術と経済が一体化した現代では、宗教とともに衰退してゆく。感覚を育てるのは実は文化的伝統であり文化的環境である。そして文化の根は実は宗教なのである。