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幼童教育の『論語』

2008年5月13日付 中外日報(社説)

六世紀中国の北魏の人、徐遵明は、大変な自信家で鼻っ柱の強い学者だった。『北史』儒林伝の徐遵明の伝記には次のようなくだりがある。――遵明は鄭玄(じょうげん)の『論語』の序に、「書するに八寸策を以てす」とあるのを、「八寸策」を「八十策」と読み誤った上、あれやこれやとこじつけの説を立てた。

鄭玄は二世紀後漢時代の大学者。儒教のさまざまの古典に注釈を施し、『論語』注もその一つだった。ここに「鄭玄の『論語』の序」とあるのは、鄭玄が自らの『論語』注に付した序のことであろう。

残念なことに、鄭玄の『論語』注は時代とともに次第に失われ、完全な姿のままでは今日に伝わらない。他の書物に引用されている断片、また二十世紀の初めに甘粛省敦煌の千仏洞から発見された数種の写本、そして一九六九年に新疆ウイグル自治区トルファンのアスターナ墓地から発見された卜天寿なる十二歳の少年が唐の景竜四年(七一○)に書写した写本、それらを合わせて『論語』諸篇のうちのおよそ半分の篇に施された鄭玄の注を知ることができるだけである。

問題の『論語』注の序も断片しか伝わらないが、しかし徐遵明伝に「書するに八寸策を以てす」と引かれている文章は、幸いなことに『儀礼(ぎらい)』聘礼篇の唐の賈公彦の注にも「鄭(玄)は『論語』の序を作りて云わく」として次のように引かれており、その意味するところを知ることができる。

「易、詩、書、礼、樂、春秋の策は皆な二尺四寸。孝経は謙にして之に半ばし、論語の八寸策なる者は三分にして一に居り、又た焉(これ)に謙にす」

策とは、紙が発明される以前の書写材料であった竹簡ないし木簡のこと。つまり、『易経』『詩経』『書経』『礼経』『樂経』『春秋経』のいわゆる六経、ないしは『樂経』は早くに失われて『礼経』に吸収されたからいわゆる五経は、二尺四寸の長さの策に書写され、それに対して『孝経』は遠慮して二尺四寸の半分の長さの一尺二寸の策に、さらに『論語』は三分の一の長さの八寸の策に書写され、それは一層遠慮してのことなのだというのである。

かく、『孝経』と『論語』は五経よりも長さの短い策に書写されたというわけだが、冨谷至氏の「錯誤と漢籍」と題した文章(『漢籍はおもしろい』所収、研文出版、二〇〇八年三月)には、『論語』が八寸の策に書写されることについての氏の考えが次のように述べられている。

「度量衡は時代を追って長くなっていく。このことは、漢代にはすでに認識されていて、漢代の一尺の長さは、周の八寸に相当するといわれていた。つまり『論語』の八寸とは、周の一尺ということであり、周を理想の国家とした孔子の言行録である『論語』の長さを八寸と短くすることで、逆に『論語』の権威を示したのだと」

だが、『孝経』と『論語』は五経に遠慮して書写する策の長さが短くされるのだという鄭玄の説もあながち捨てがたいもののように思われる。

というのも、五経は孔子に先立つ聖人の著作としてすでに存在し、あるいはすでに存在していたものに孔子が整理の手を加えたもので、それらを孔子が人類永遠の教科書として選定したと伝えられるのに対して、『孝経』は孔子が「孝」の徳について弟子の曾子に教えたものであり、『論語』は門弟たちによる孔子の言行の記録だからである。

『孝経』と『論語』はいわば五経に准じる地位にとどまったのであり、あえて言うならば幼童のための教科書なのであった。

現実に、例えば三国時代の人、鍾会が母親から授かった家庭教育のプロセスは、四歳で『孝経』、七歳で『論語』、その後、八歳で『詩経』、十歳で『書経』、十一歳で『易経』、十二歳で『春秋』と進み、十三歳にして『礼経』を学んだと伝えられている。

中国古代の知識人が古典を学習する場合、まず最初に『孝経』と『論語』を学び、その上で五経を学ぶのが一般の習わしだったのである。