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後期高齢者とは何か

2008年5月3日付 中外日報(社説)

自分ではよく分かっていても人に言われると不快になる言葉というものがある。むかしならデブ、今ではメタボなどというが、気持を腐らせる点ではあまり変わりない。このたぐいは探せばいくらでもある。最近、新聞を賑わせる「後期高齢者」などは間違いなくその中に入るだろう。

このたぐいの言葉遣いには、自分がそうではないことに対する想像力の乏しさ、言語感覚の貧しさが感じられる。すっかり荒廃したこの国の教育や社会の仕組み、そしてその中にのさばる人々のありようまでが、寒々とした気分とともに透けて見えるようだ。

さてこの「後期高齢者」だが、その名を無遠慮に冠した新しい保険制度が発足したというので、また騒ぎが起こっている。騒ぎになる理由は明らかだ。年金の支給が、社会保険庁のさまざまな不正や怠慢のために適正に実施されていない中での保険料の天引き、というのは理に合わぬ、というのがその一つだろう。

そもそも年金を受けるのはわれわれ国民の当然の権利である。「支給」という言葉も考えればおかしいのだが、そのことはしばらくおき、保険料天引きと社保庁の不正とを一緒くたにするのは一見もっともだけれど話は違う。もし払うべきものであれば、払わねばならないのだから。

かつて、介護保険料に関して年金天引きは憲法違反だという議論があった。取りやすい方法で取るという発想はいかにもこの国のお上のやりそうなことだ。

それよりも問題なのは、国民健康保険を腑分けして、老人を後期とそれ以外(前期とでもいうのだろうか)に区別し、後期高齢者の保険を別に囲い込んで、かつ保険の利く医療は制限を加えるというところにある。医療の地域差の問題もあるけれど、実はこちらの方が深刻なのだ。

この制度は、一方から見ると、親である老人を扶養家族から切り離したり、年齢差のある夫婦を切り離して別々の保険証にするなど、環境や状況によって個人差はあるけれど、家族のきずなを断ち切るような野蛮な制度だということである。そこには老人を医療機関から遠ざけようとする狙いさえ垣間見える。

もともと老人医療の問題は難しい。その昔は七十歳以上高齢者医療費無料化という制度があった。今思えば夢のような話だ。だが、高齢化社会の現実の過酷さがそのような余裕を許さなくなった。

顧みれば若いころにはあまり病気をしなかった。にもかかわらず高額の保険料をそれこそ天引きされていたが、現役が老人を支えているのだとそれなりに納得してはいた。しかし、たまに病気やけがで病院に行くと、ロビーは高齢者の姿であふれ、せっぱ詰まってやって来たのに、苦しい思いで長時間待たされた経験を持つ人も多いだろう。病院が高齢者の安心して集える場所になっていたのだ。

老人保健法施行で高齢者も医療費の一部が自己負担となって、この風景は少し変わったが、しかし、そもそもなぜこんなことになったのだろうか。

今、日本では、多くの高齢者が貧窮と孤絶感の中にある。国民年金は最高額でも年間八十万円に届かない。そのことだけでも証明には充分だろう。無料、あるいは廉価の病院に世間から切り捨てられたかのように高齢者が押しかける現象は貧しさ・孤独と決して無縁ではない。

これは思うに、この国が、われわれ国民とその選良が、「役に立つ」ことだけを追い求めてきた結果なのである。

仏教は「無用」を説く。また仏教、そして東アジアの風土は老人を何よりも敬愛してきた。今、そうした文化が滅びようとしている。第一線から引退し、「無用」のところに退いたように見えても、心豊かに暮らす高齢者の社会的存在価値は大きいはずなのである。しかるに彼らの置かれた現状はどうだろう。世界に誇る長寿国が聞いてあきれる。

「人生に必要なものは、勇気と想像力と少しのお金」とはチャプリンの名言である。その「少しのお金」を高齢者のために具体化することは、この国が本気になりさえすればできるのではないか。

人は老い、病み、そしていつか必ず死を迎える。だから高齢者にも高齢者としての覚悟が要るだろう。しかしそれより何より、高齢者が心豊かに暮らせる環境がまず必要なのである。政治に求められるのは、まさにその環境づくりであり、税金の適切な使い方にほかならない。