ニュース画像
「誠」の隊旗を掲げた五重塔院で営まれた法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

"蛍の光"ならぬ駅の灯で学んだ

2008年4月26日付 中外日報(社説)

いまの若い人には信じられないだろうが、終戦直後の日本では、たびたび停電があった。家庭の電力消費量は大したことはないが、電力会社の能力が追いつかなかったのだ。

「あのころ私は、夜になると西武電鉄の駅へ行って勉強したものです。電車の駅だけは停電がありませんでしたから」。在野の民俗学者として次々に新説を打ち出し続け、四月中旬に九十一歳で死去した吉野裕子さんの、若き日のエピソードである。

夫・永二さんと二人、四回も空襲で焼け出され、着のみ着のまま多摩の農家の離れを借りた。「何もすることがないので、ヒマつぶしに勉強しよう」。すでに女子学習院高等科(旧制)を卒業していたが、昭和二十二年、三十一歳で津田塾専門学校(同)に入学。在学中に校名が津田塾大学に変わる。前後五年間在学し"蛍の光"ならぬ駅の灯で学んだ。

民俗学に志したのは昭和四十年代の初め、五十歳の時だった。結婚式の披露宴で、歴史学・民俗学者として有名な和歌森太郎氏と同席になった。日本舞踊で扇がさまざまな役割を果たしていることを話し合ううちに、和歌森氏が「扇の起源について本格的な研究をした人はまだいない」と告げた。「それなら私が研究してみよう」と吉野さんは思い立った。

しかし、それまで民俗学には何の素養もない。最初の一年間は、結婚前に聴講生として通学したことのある東京教育大学(現在の筑波大学)の夏季講座に出たり、国会図書館で文献を調べたり。四十三年から本格的に"歩き"始めた。

扇の原型はビロウの木と分かった。たくさん生えている宮崎県の青島へ行き、木々を見つめているうちに「男性の性器に似ている」と気づいた。ビロウの本場の沖縄へ足を延ばし、ニライカナイ信仰の祭事には、男女を問わず、性をかたどった祭具や所作が多いことを知った。

当時の民俗学界は、柳田国男氏の影響から、性を排除する気風が強かった。和歌森氏は「学界でセックスはタブーだからなあ」と心配したが、どこの大学にも学閥にも所属していない吉野さんは、誰はばかることなく、実地調査を重ねた。その結果さらに「日本民族は縄文時代から蛇を祖先神として信仰していた」との新説を唱えた。

自由奔放とも見える研究ぶりではあったが、悩みもあった。「女が独学で、五十歳からどの学閥にも属さないで研究を始める。それはつらかったですよ」と告白した。

昭和五十一年の夏、東京教育大学へ文学博士の学位論文を出した時は、執筆の疲労とストレスのため、歯が全部抜け落ちた。「大学からは、原稿用紙で千枚分書けと要求されたけれど、お願いして八百枚にまけてもらいました」

吉野民俗学は、とどまることを知らぬように発展し続けた。扇、蛇の研究は、古代中国の陰陽五行説に結びついた。次々に世に問うた著書には、中国も日本も宗教や政治が、すべて陰陽五行説に集約されると記されていた。歴史上の事件の多くは「木火土金水」の五行説で説明できるという。吉野さんと話していると、本当にその通りだとうなずかされてしまう。学説の一端は、中外日報にも数回、登場した。

冷房機器メーカーの経営者から引退した夫・永二さんは、吉野さんの研究旅行に付き添うようになった。だが吉野さんは言った。「私一人の方が収穫の多いこともある。古い神社でも、女一人だと気を許して、門外不出の資料を見せていただけますから」

戦後、東京暮らしの長かった吉野夫妻は平成七年、古代史のふるさと奈良へ転居した。いまの政局を陰陽五行説に当てはめたらどうなるか、その解説を聞く機会を失ったのが惜しまれてならない。