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『牛棚雑憶』が語る「文革」の暗い記憶

2008年4月15日付 中外日報(社説)

季羨林(チー・シエンリン)氏の『牛棚(ぎゅうほう)雑憶手稿本』(中国言実出版社、二〇〇六年十二月刊)を読んだ。大型版の見開きの左ページには手書き原稿の写真が印刷され、右ページにはそれを活字に起こしたものが印刷されている。

季氏はすでに百歳に近いインド古典文学と仏教学の老大家である。一九一一年、あたかも辛亥革命の年に山東省清平県(現在の臨清市)に生まれた季氏は、清華大学西洋文学系を卒業後、三五年から四五年までドイツのゲッチンゲン大学に留学、ナチス政権の崩壊に伴って帰国すると、直ちに北京大学教授に就任した。散文作家、また詩人としての令名も高い。

『牛棚雑憶』を一読し終えた筆者の心は、今もなお暗くて重い気分に閉ざされたままである。書名に用いられている「牛棚」とは牛小屋のこと。本書には、「文革」すなわち「文化大革命」の時代に季氏の身を襲ったおぞましい体験、ダンテの『神曲』に描かれた地獄も仏教が説くところの地獄もまだまだ生易しいほどのおぞましい体験が生々しく語られているのだ。

文革が発動された当時、北京大学東語系(東方言語学部)の主任であった季氏の人生は、六七年十一月三十日をもって暗転した。その日の深夜、乱入した数人の紅衛兵によって家捜しを受け、「反革命分子」であるとの罪証をでっちあげるのに充分な数点の戦利品が押収されたのであった。

その日以後、季氏はまるで屠殺場に送り込まれる家畜のように審問の場に引き立てられ、耐えがたい罵声が浴びせかけられるのはもとよりのこと、ビンタや脚蹴り、その他さまざまのリンチが加えられた。しかもそれを行なうのは、往々にして東語系の学生たちであった。

季氏の肉体は傷つき、精神はまひし、いっそのこと自ら命を絶ってしまおうなどとの妄想にもかられたのであった。思いつかれた一つの方法はメタミドホスをのみ込むことであったという(余計なことながら、原文の「敵敵畏」がメタミドホスと呼ばれる毒性の強い殺虫剤であると知ったのは、中国製冷凍ギョーザ事件によって連日のごとくに報道されたニュースによってのこと)。そして六八年に至って、同じ境涯の仲間たちと牛棚に起居することを命じられる。

牛棚は北京大学構内の廃屋に設けられた、それこそ「牛棚」としか呼びようのない劣悪な居住空間であり、「労改大院」を正式名称(?)とするこの収容所の住民は牛馬のごとくに「労改(∥労働改造)」を名とする強制労働に駆り出されたのであった。

暗くて重い『牛棚雑憶』だが、それでもまったく救いがないわけではない。文革が次第に収束に向かうにつれて、季氏も六九年には自宅に戻ることを許される「半解放」の時を迎え、七○年には「完全解放」となり、東語系の事務室と学生の寄宿舎とを兼ねた建物の守衛の職務を与えられる。

職務の内容は、建物に出入りする人間の監視、電話の取り次ぎ、新聞と郵便物の受け取り。ただそれだけの職務に時間を持て余した季氏は、なんと驚くべきことにインド古代の叙事詩『ラーマーヤナ』の翻訳を手がけることを思い立つ。実現はとてもかなうまいと思いながら、恐る恐る図書館員に依頼し、国際書店を介してインドに発注されたサンスクリット原典が、意外にも二ヵ月足らずして手元に届けられたのであった。それは、文革後数年間における「最大の慶事」であった。

かくして、前夜に自宅においてまず散文体に翻訳した紙片をポケットにしのばせ、それを翌日、守衛室でこっそり韻文に改める仕事が始められる。「完全解放」とはいえ、文革が正式に収束するのは七六年のこと。まだまだ人目をはばからずには行なえない仕事であった。

そして最大の救いとすべきは、今や完全に地位と名誉を回復された季氏が、過去の生活の「報復」のために本書を著わしたのではないことである。

中国の歴史において最も野蛮で残酷であった時代、その時代を生き抜いた者の貴重な経験を、「文革」と聞いても「海外の奇談」のようにしか思わない現代の青年たちに正確に伝え、中華民族にとって空前のものであった大災難がそれを最後として絶後のものとなり、あのような愚行が二度と繰り返されてはならぬとの熱い気持から本書は著わされているのである。