ニュース画像
関係者に感謝の言葉を述べる田代弘興化主
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

宗派意識よりも思いやりを優先

2008年4月12日付 中外日報(社説)

四十二年前、筆者が京都で宗教界の取材を始めた時に、ぜひ会いたいと願った尼僧が二人いた。山科・仏光院の大石順教尼と、嵯峨・祇王寺の高岡智照尼である。ともに花街の出身で、真言宗だった。当時順教尼は七十八歳、智照尼は七十歳。今となっては、知る人は少ないだろう。

大石順教尼は、十七歳の時、一家五人殺しをした養父のため、両手を失った。その不幸にめげず、仏門に入り、口に筆をくわえて書画をよくした。今日なら後期高齢者扱いされる年齢だが、頼まれれば全国どこへでも出向き、自らの体験談を語って幸うすい人々を励ました。

「祇王寺に入ったら」と勧める人があった。源平の昔、平清盛の寵愛を受けた後に捨てられた祇王・祇女の姉妹が嵯峨野に結んだ草庵が、祇王寺である。願ってもない話であったが、別の筋が智照尼を推していると聞くと、きっぱり身を引いた。「年長の私が、智照さんのじゃまをしてはいけない」と。

「智照さんが入られたことで、無住で荒れていた祇王寺は、立派に復興しました。そして辞退した私は、勧修寺門前の由緒ある仏光院をいただくことができました。まさに仏恩です」と順教尼は語った。

後に順教尼の心遣いを知らされた智照尼は、終生順教尼に感謝し、敬意を抱き続けた。

智照尼は、祇王寺を復興した功績は全く語らず「私はもともと陽気な性格ですから、陰性の嵯峨野にうまく融け込めたのだと思います」とだけ語った。積極的に説法行脚する順教尼と、静かに寺を守る智照尼と。互いに尊敬し合う二人の姿は、七十代と思えぬほど若々しかった。

昭和四十年代初めの京都では、ほかの大都市圏と同じように、郊外に次々にニュータウンや住宅団地の造成が進んでいた。ある団地に入居した一家で、老人が急逝した。団地の近くに寺はない。葬儀社に紹介された僧侶に導師を頼み、戒名も付けてもらった。

後日、トラブルが起こった。遺骨を郷里の檀那寺へ納めようとしたところ、その宗派の流儀と違う戒名だったので「これでは当寺でお預かりできない」と言われたそうだ。喪主は「お寺さんはどこも同じだと思っていた」と告白した。当時の団地族の宗教意識は、この程度であった。

その直後、同じ団地内で急病の幼児が短い命を閉じた。A宗の尼僧が導師に招かれた。その家の宗旨がB宗と聞いた尼僧は、B宗の寺院に電話をかけて「私はこのような戒名を考えましたが、B宗の作法にかなっているでしょうか」と確かめた後、白木の位牌に戒名を記した。

たまたま両方の葬儀に参列した筆者は、A宗尼僧の配慮の細やかさに感銘を受けた。宗派意識より喪主の立場を思いやる。そこに尼僧の存在意義の一つがあると思った。

ところで、筆者が不審に思うことがある。釈尊は、男女の差別をしなかった。「如是我聞」で始まる経典には、比丘と比丘尼、優婆塞と優婆夷がともに釈尊の教えを聞いたと記されている。だが、釈尊の入滅直後に、その教えを再確認するため比丘五百人が七葉窟に招集された「第一結集」には、比丘尼の代表が列席したという記述はない。なぜ比丘尼の姿が急速に薄れていったのか。これが筆者の疑問である。

尼僧の姿がよみがえるのは、大乗化して中国へ伝えられた北伝仏教においてであった。日本の出家第一号は善信尼、禅蔵尼、恵善尼の三人で、いずれも渡来人の娘。この三人が仏教史の先達となった。

さて、浄土宗の善光寺大本願副住職に、京都出身の鷹司誓榮尼が決まったと報じられた。一般に尼僧後継者が減る傾向にある中で、喜ばしいニュースである。尼僧寺院活性化の呼び水となることを期待したい。