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いま、仏教僧侶に求められる「自信」

2008年4月3日付 中外日報(社説)

日常生活においてわれわれは、時として自信喪失を味わうことがある。特にスポーツ選手など、戦いに臨んで思わぬ苦杯を舐めるようなとき、自分自身について秘かに抱いていた確信がゆらぎ、落ち込んだりするであろう。

ただ、この場合は悔しさが屈辱となり、次回にはぜひとも起死回生を遂げたいという、以前にも増して自発的な勇気が起こり、それが新たな努力となって顕われるものである。

なぜそういう自信回復への力が顕われるかというと、もともと「自信」というものがあって、それが奪われたからである。最初から自信がなければ、喪失ということもあり得ない。

ところで筆者にとってこのごろ、しきりと気に掛かるのは、仏教僧侶たちの、いかにも自信なさそうな言動である。それも自信の不在を羞じるような振る舞いであれば、まだしもであるが、自信の不在にさえ気付いていない様子に至っては、よくあれで法衣を身に着けておれるものよと、訝しくなるのを禁じ得ない。

こういう人たちが、何について自信を失っているかというと、僧侶でありながら、自分のよって立つべき教義を、心から信じることができないということである。従ってそういう自分に対して、信仰者としての確固たる自信を持つことができない、ということになるのだろう。

しかも食べるためには、法衣を捨てることもできず、内心忸怩たるものを抱きながら、ともかく形式的な法要儀式に身をやつすことによって、自分の聖域を守るという自己欺瞞のうちに、時を過ごしているだけということになる。

そういう職業的僧侶の欺瞞的なあり方に、敗北を喫したスポーツ選手のような悔しさが伴わない限り、今後、日本の仏教に本来化は期待できないのではないか。日本仏教再起のための根本条件は、仏教僧侶の「自信」の回復が何よりも先決条件であり、これへの努力がない限り、日本における仏教の命数は時間の問題と見るべきであろう。

ところで、今日の仏教僧侶の「自信喪失」というものは、自己の信奉する教義それ自体に由来するものではない。言うまでもなく縦糸としての祖師の教説は、古今を通して永遠不変だからである。

問題は横糸でそれを紡いでいく僧侶たちの、個人の信仰心の側にある。「自信」は文字通り、今ここに、深い信仰心をもって生きている一人の自分がある、という自己確信であって、教義を信じるかどうかという、外に向かっての「信仰心」のことではない。要するに仏祖の教えに対して、信じるかつまずくかの二者択一こそが、「自信」のメルクマールになるであろう。

この大切な自分に対する確信、すなわち「自信」ということについて、最も親切に説いている祖録の一つに、『臨済録』がある。臨済は弟子たちに向かって次のように言うのである。

「学道の人(修行者)、且(しば)らく自ら信ぜんことを要す。そとに向かって覓(もと)むること莫(なか)れ」「如今(いま)の学者(修行者)の不得(悟れない)は、病、甚処(いづれ)にか在る。病は不自信の処に在り。尓(なんじ)若(も)し自信不及ならば、即便(すなわち)忙忙地(ぼうぼうじ)にして、一切の境に徇(したが)って転じ、他の万境に回換(えかん)せられて、自由を得ず」

『臨済録』は自力聖道門のテキストだから、自分に対する信頼を第一にするのは当たり前だ、と思う向きがあるかもしれない。しかし、いくら絶対他者を自己の外に立てる救済宗教であっても、神や仏との深い関係が成立するためには、信仰者が自己の有限性をしっかり見つめるという自己確立が前提であることは言うまでもなかろう。

今日、日本仏教の僧侶たちは、西欧近代のヒューマニズムに毒されて人間の能力を手放しに信頼し、自己の罪業性とか有限性という、救済宗教成立の根本条件にさえ、まったく無自覚になってしまっているのではないだろうか。