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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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よき時代を懐古するだけでなく

2008年4月1日付 中外日報(社説)

新幹線が開通する以前、東海道線の特急は京都から東京まで、片道六時間余りかかった。クリーム色の車体で"ビジネス特急"と呼ばれた電車だった。

そのころ、天台宗比叡山延暦寺の即真周湛(つくま・しゅうたん)天台座主は、上野の寛永寺へ行くため京都から列車に乗り込むと、座席に坐ったまま目を軽く閉じ、一言もしゃべらなかった。浜名湖の青い水も、富士山の白い山肌も見ようとしない。お伴のお坊さんは手持ちぶさたで困り果てたが、即真座主自身は少しも退屈していなかった。数珠をまさぐりながら、口の中で諸仏諸尊の名を唱え続けていた。

同じころ、浄土宗総本山知恩院の岸信宏浄土門主は、念仏ひとすじの人だった。冬のある日、三重県の山寺に招かれた。同行の僧が耳打ちをした。「この寺の奥さんは、今夜遅くまで法要の後片付けをする。早起きさせては気の毒だ。あすは私たちは朝寝坊しましょう」

ところが早朝、同行の僧が目を覚ますと、岸門主の床は空っぽだった。雨戸を一枚開けて正坐し、薄明かりの中で静かに念仏を唱えていた。普段は午前三時から内仏で念仏を上げる岸門主のこと、とても朝寝坊などできなかった。

東京オリンピックが終わり昭和四十年代に入ろうとするころ、日本の既成仏教界は"よき時代"を迎えていた。戦後心配されたキリスト教や新宗教の進出も、その影響を最小限に抑え、各宗派とも祖師の遠忌法要を盛大に営むことができたからだ。高度成長経済が、宗派の財政を支える原動力となっていた。

どの宗派も、即真座主や岸門主のような人物を管長に推戴し、その舞台裏を宗政家と呼ばれる実力者が支えた。国会が顔負けするほどの政争を展開し「あの寺では天井裏のネズミまで二派に分かれてにらみ合っている」と伝えられたところもある。既成仏教界は、聖と俗の二面を併せた姿で、安定成長を続けた。

筆者が、臨済宗妙心寺派の古川大航管長に会ったのは、同管長九十六歳の時だった。全国を元気に巡錫し「私は日本最年長のサラリーマンだ」と語っていた。「一般民衆の教化は新宗教さんに、海外開教は本願寺さんにお任せする。五十年もすればみんな禅に帰依してくるよ」が持論だった。すでにテレビの時代を迎えていたが、古川管長はラジオとともに起居していた。肌着を自分で縫わないと身に合わぬと、妙心寺小方丈で日なたぼっこをしながら針を運ぶ姿も見た。

当時、同管長より三十歳若い山田無文祥福僧堂師家が妙心寺四派本庵の一つ、霊雲院の住職を兼務していた。管長は「山田は妙心寺の国宝だ。ぜひ私のあとを継がせたい」ともらしたことがある。だが、無文老師は天龍寺の関精拙老師の法嗣で、しかも髪を伸ばし、上座部の僧侶が用いるような袈裟を着けるなど型破りの存在であり、大宗派である妙心寺派の管長になるはずはないと見る向きもあった。しかし無文老師は後に本当に妙心寺派の管長に推された。こういう人事が実現したのも"よき時代"を象徴する出来事だと言えないだろうか。

それから四十余年。今また仏教界は、浄土宗や真宗各派の"大遠忌"に代表されるビッグイベントの時代を迎えようとしている。しかし一部宗派の、特に若い僧たちが、仏教界の前途は大丈夫だろうかとの声を上げ始めている。人口が百年後には半減するという予測も伝えられる現在、右肩上がり時代の趨勢を引きずったままでよいか、という危機感からである。人口減の時代の入り口を背負うのは、この世代の青年僧たちなのだ。

率直に言って、いま宗政をあずかる各派の幹部の中には、そのような危機感が見られない人もいる。備えは早いに越したことはないはずだが。