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道教と仏教の老子像

2008年3月18日付 中外日報(社説)

『荘子』とともに中国の道家の書物の代表格である『老子』。司馬遷の『史記』に、「老子なる者は楚の苦(こ)県厲(らい)郷曲仁里の人なり。姓は李氏、名は耳(じ)、字(あざな)は耼(たん)。周の守蔵室の史(周王朝の宮中図書館の書記官)なり」と始まる老子列伝が備わるけれども、『老子』の著者とされる老子の実像は、はなはだ不分明である。実像が不分明であるだけに、後世、実にさまざまの老子像が作り上げられたのであった。

例えば『後漢書』襄楷(じょうかい)伝には、二世紀の中国において、「老子は夷狄に入りて浮屠(ふと)と為る」との説が行なわれていたことが伝えられている。

浮屠とは仏のこと。『史記』老子列伝によるならば、老子は関所役人の尹喜(いんき)のために『老子道徳経』五千言を著わした上で立ち去り、そして「其の終わる所を知る莫(な)し――その最後は分からない――」と結ばれているのだが、それに尾ひれが付けられて、実は老子は関所を立ち去ってから夷狄の地に入り、仏となった、というわけだ。

つまり、仏教はそもそも西方の夷狄である胡人を教化すべく老子が創始したものにほかならぬというのである。このいわゆる「老子化胡説」は、その後、老子が道教の始祖に祭り上げられ、道教の神々すなわち神仙の中心の位置に据えられるに至って、道教が仏教に対しての優位を誇示するための有力な武器となり、さまざまのバリエーションの『老子化胡経』が制作されたのであった。

「老子化胡説」は放恣な想像に基づく老子像の最たるものとすべきだが、「竹林の七賢」の一人である嵆康(けいこう)の『聖賢高士伝賛』、すなわち上古以来の聖人、賢人、隠遁者など百十九人の伝記を集めてそれらに評語を添えた書物の涓子(けんし)の条にも次のような記事が見いだされる。

「涓子は斉の人。朮(おけら)を餌し、服食(仙薬の服用)すること甚だ精なり。三百年後に至って、河沢にて釣りして鯉魚の中の符(おふだ)を得たり。後に宕石(とうせき)山に隠れ、能く風雨を致(まね)く。伯陽(はくよう)に九仙の法を告ぐ」

伯陽とはほかでもない老子。『神仙伝』の老子伝には、『史記』老子列伝が字とするところの「」は外字、すなわち世俗向けの字であって、本当の字は「伯陽」だとある。そして「九仙の法」とは、九等級にランクづけされる神仙、それらの神仙になるための仙術のことであろう。

『聖賢高士伝賛』のこの記事に飛びついたのは、道教に激しい対抗心を燃やす仏教の護法僧たちであった。例えば六世紀北周の道安の「二教論」に言う。

老子が涓子から「九仙の法」を学んだのであれば、老子は至高の聖人ではない。何となれば、『論語』に「生まれながらにして知る者は上なり。学んで知る者は次なり」とあるからだ、と。

そしてまた七世紀の唐の道宣(どうせん)の編著である『広弘明集(こうぐみょうしゅう)』。「仏道を弘め仏の教えを明らかにする」ことを書名とする梁の僧祐(そうゆう)の『弘明集』、それを増広するところの『広弘明集』には、全三十巻のうちの巻五から巻十四までの十巻が弁惑篇に充てられ、そこには「二教論」を含めもっぱら道教攻撃を目的とする論文が集められているのだが、その弁惑篇の序に言う。

老子は『道徳経』を著わしたといっても、それは道篇と徳篇のたったの二篇にしかすぎない。しかも『道徳経』はそもそも涓子が説いたものなのであって、老子はただそれを尹喜に伝えただけのことなのだ。つまり、『道徳経』は老子の創作ではないのである。

道宣がこのように言うのは、『聖賢高士伝賛』では老子が涓子から教えられたのは「九仙の法」であったとされているのを、それを故意にねじ曲げて拡張解釈し、『道徳経』もやはり涓子から教えられたものであったにすぎない、としたためであるのに違いない。

道安が言うように老子が聖人ではないのであれば、また道宣が言うように『道徳経』が老子の創作ではないのであれば、道教がその存在を根底から揺さぶられることとなるのは必定であった。