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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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情熱と分別

2008年3月15日付 中外日報(社説)

近ごろの青年にはやる気(情熱)がない、無気力・無関心・無感動だと、ひところよく言われたものである。確かに一部の青年には当たっていなくもないのだが、では情熱があればよいかといえば、そうでもあるまい。

人間は戦いと恋と仕事に燃えるものだ。そしてしばしば理性を失う。例えば戦争だが、これは競技と違ってルールはないも同然だから、できるだけ正確な情報を遺漏なく集め、希望的観測や偏見や先入見を捨て、状況を冷静に判断して堅実な作戦計画を立てなくてはならない。しかし第二次世界大戦時のわが国はまるで反対だった。

「一億火の玉となって」「米英撃滅の闘魂に燃え」、すべてを犠牲にして「勝利のために全力を傾注」したのだが、そもそも生産力に大差があるのに連合軍と戦争を始めたのが正気の沙汰ではなかった。後になって分かったことだが、武器弾薬や食料を補給する能力もないのに、軍はわずかな僥倖を当て込んであきれるほどずさんな作戦計画を立て、実行に移していたのである。いくら必勝の「信念に燃えて」国民全員が「大和魂」を奮い起こしてもこれでは始まらない。

それで懲りたかと思っていたら、そうでもなかった。六〇年安保闘争から七〇年代初めにかけて若者の学園紛争、さらに反体制闘争が燃え上がり、一部の「進歩的知識人」やマスコミに煽られて暴走した。

実は彼らの言い分には一理も二理もあったのだが、ただ体制を破壊することに熱中するばかりで来るべき社会の見取り図など全くないありさまだから、国民の大部分はあきれ返って傍観するよりほかなかったのである。この運動は結局は警察力によって鎮圧され、浅間山荘事件で結末を迎えた。若者が「無気力」になったのはそのころからではないか。

しかし本稿で取り上げたいのはむしろ次のことである。経済人は元来、最も冷静な状況判断と計算に長けているはずではなかろうか。しかし八〇年代の土地バブルを見ると、どうもそうとは思えないのである。地価は上がり続けるという「神話」を信じ込んだのか、信じ込ませたのか、金融業は「地上げ」に狂奔する不動産業への貸出競争に巻き込まれた。

競争は戦いの一種である。負けてはならじという情熱に燃えて計算を忘れたのだろうか、競争が激化して、あれよあれよという間に地価は三倍以上に高騰し、結局は「神話」の化けの皮がはがれたのみならず、不動産業への貸出の総量規制が発動されて、バブルは「はじけて」しまった。その後の金融不安や長い不況は記憶に新しいところである。

こういうへまなことをするのは日本人だけかと思っていたら、そうでもなかった。アメリカで低所得者用住宅向けのサブプライムローンが金融業界の無茶な貸出競争のターゲットとなり、結局は返済が焦げ付いた。ローンの債権を組み込んだ証券が値下がりし、アメリカだけではなく、EUでも日本でも、金融業界には驚くほど莫大な欠損が生じた。

これは誰でも知っている通りである。経済は国家の根幹をなすものだそうだが、巨大ファンドの投機が経済と民生を歪めている実情をみると、怪しいものではないか。

先にも述べたように、人間は戦いや恋や仕事の情熱に燃えて理性を失う。日常生活の平板さと退屈を破る情熱と陶酔は、多くの人の憧れるところではあろうが、人間には醒めた面がなければ危険この上もない。

ところで一部の狂熱的宗教は別として、もともと宗教者はあくまで醒めた人間、内に無限の情熱を秘めてはいても、質素と静寂と平和を愛する人間である。分別の世界にいなくても、分別を失うことはない人間であり、実際その通りであるように思われる。

ただ、時としてその「静寂さ」は、単に教化の自信と情熱を失った結果であるようにも見えてくる。これはいったいどうしたことであろうか。