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編集者の情熱が感じられぬ書籍

2008年2月26日付 中外日報(社説)

最近の産経新聞の「断」というコラムで、作家のA氏と評論家のB氏が、議論をたたかわしている。発端は、戦後間もない時代を背景に書かれたA氏の作品の中に、ごく新しい俗語や流行語が出てくるとの、B氏の指摘だった。「作者の責任でもあろうが、編集者、校閲者は何をしていたのだろう」と。「その時代にこれはないぜ」の見出し付きである。

A氏が反論した。「小説の時代相描写が正確かどうかは、物語性に従属する問題である」といい、言葉づかいの数ヵ所は「わたしが意識的に現代語感の言葉に置き換えたものだ」と主張する。大衆小説は、今の読者に分かりやすい表現をとるべきだ、と。

さらに、自分への「ナイーブな批判は、微苦笑するだけでやりすごす」が、担当の編集さん、校閲さんを怠慢呼ばわりしたのは許せないと述べていた。

するとB氏は、さらに反論した。編集者や校閲者を批判したのは、A氏の著作を手がけた人だけでなく、出版業界全体の能力低下を批判したのだ、という。最近の業界では編集者・校閲者の間で、仕事への誇りや責任感などの低下が感じられる、とも。

B氏の、この部分の指摘に関しては、筆者として共感するところが多い。筆者はこれまで、著者として数冊を出版したことがあり、また編集者として他者の著作を一冊に仕上げたことも数回あるからだ。

著者は、原稿の完成を急ぐあまり、思い違いをそのまま書いたり、事実の確認をおろそかにすることなしとしない。それをカバーするのが編集者であり、校閲者だ。時に著者との間で激論を交わすこともあるが、それも、よい出版物を仕上げるためである。

最近、筆者のもとに書評を求めて送られて来る著書が多いが、その中には、いったいこの本の編集者は、原稿を愛情をもって受け止めたであろうかと、疑いたくなるものがある。字数を数え、ページ数を数えて流し込み編集をしただけではないか、と思えるのだ。だからB氏の出版業界批判には共感を覚える。

著者の生硬な文体をそのまま組み込んだため、難解なものがある。誤植や変換ミスを見逃したり、固有名詞の誤りをスリップさせたものもある。本文と地図で地名表記が食い違っているケースや、図版をそのまま縮小したため字が小さくて読めない例など……。

B氏は言う。「昔は、鬼と呼ばれる編集者がいた。国文学者も及ばぬ見識を備え、どんな大家の原稿にも遠慮なく朱筆を入れた」。ところが「人気作家の中には誤記誤用を指摘されると機嫌を損ねて他社に鞍(くら)替えする人もいる。それにおびえて巧言令色に務める輩(やから)も多い」そうだ。

筆者は活字仲間のよしみで、書物に誤りがあると、著者や出版社に知らせている。一部作家は宗教関係が苦手のようで、間違いが多い。ある時代小説に登場する寺院の所属宗派名が違っていることを知らせたら、再版で訂正したといって献本してくれた作家がいる。しかし「私の小説は面白ければよいのだ」と言って、祀られるはずのない本尊を奉祀させたまま版を重ねる作家もいる。

出版界をめぐっては、このところ不景気な情報が流れることが多い。書籍も雑誌も前年割れが続いているという。自費出版ブームに乗って急成長した新興の出版社が、あっという間に不渡りを出したとも報じられた。B氏が指摘する一部編集者・校閲者のモラール低下は業界事情の反映であろうか。あるいは、投げやりな書籍作りが、出版不況の一因かもしれない。

さて、B氏がA氏の作品に注文をつけたのは、その小説がまれに見る力作だったからではないか。この論争を機縁に、A氏がさらなる話題作を生み出すことを期待しよう。