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粗食のすすめ

2008年2月14日付 中外日報(社説)

このところ、食物関係の偽装事件が相次ぎ、それが、中国製ギョーザの毒物混入事件において、極まった感がある。衣食住は人間が生きるために不可欠であるが、中でも食は命にかかわる大切なもので、動物でも腐ったものには手を出すまい。人間はそれの見分けも付けられないほど、本能から遠のいてしまっているのだろうか。

それを嘲るような昨今のグルメブームはどうであろう。これでもか、これでもかというように、新種のものを次々と突きつけ欲望を刺激する。それを疑うこともなく受け入れるのだから、人間はなんとも無防備な動物といわねばなるまい。「美食も飽人の喫には当たらず」という言葉があるように、これほど食べるものが溢れてくると、どんなごちそうが出ても、手の方が出なくなってしまうというものなのだが。

敗戦直後の日本人が、いやおうなく実感させられたのは、食糧難であった。腹が減っては戦(いくさ)ができないといいながら、それでも祖国復興のために、人々は食うや食わずに働いたものだ。

最近、『戦後の記録写真集』を見る機会があった。驚いたことに、どの写真を見ても、みんなの顔が明るい。こういう素晴らしい日本人の笑顔が、いつのまに、どこに消えてしまったのかと、筆者は言いようのない寂寥感を得た。昔は、「衣食足りて礼節を知る」と教えられたが、現実の日本はまったくその逆で、豊饒に酔いしれてしまって、田舎の道で人とすれ違っても、挨拶もしない人が多い。ただ、自分だけで生きているようで、まるで人間としての共生感というものが伝わってこないのだ。

どうしてこうなるのか、その理由は簡単である。経済発展の陰で、目に見えないものの在ることを忘れてしまった日本人にとって、いまや生きるための最大要件は、物量である。そのために必要なものは貨幣である。お金さえあれば独りでも生きられるのであり、これがなければ、社会的共同さえ意味がないという孤独な思想が、いまこの国に蔓延している。「人はパンなくして生くることはできない」という、六十年前の貧困の思想が、今もって豊饒に溢れた現代の日本人の心を支配し、「パンのみに生きるにもあらず」が、忘却の彼方にある。

今日のグルメ文化と、それに悪乗りするような商法の横行は、そのような日本人の精神状況を絵に描いたようなものではないか。『清貧の思想』がもてはやされても、ジョッキ片手に、ビフテキを食べながら読んでいては、とても心の糧とはなるまい。

洋の東西を問わず、宗教が清貧を尊んできた理由は、飽食が人の心を貧困に導くからだろう。大徳寺開山大灯国師は、『遺誡』の中で、「衣食(えじき)のためにすることなかれ。肩あって着ずということなく、口あって食らわずということなし」と誡めている。

肩さえあれば着る物の心配はいらない。口さえあれば、食べるぐらいのものはどこにでもある。だからそういう心配をする必要はない。ただひたすら仏道修行のために精進すべきであるとの教えである。

知られるように、禅宗の修行道場における食事は、朝はお粥と梅干し、昼は麦飯と味噌汁と漬物、夜は昼の残飯の雑炊、と決まっている。カトリック修道院の食事は、さらに粗食で、容易にわれわれののどを通らないくらいである。しかも両者に共通しているのは、食を与えられることへの深い感謝の表明である。禅堂では「食事五観の偈」を唱え、修道院では、神に「感謝のことば」を捧げるのである。

食べ物の溢れる日本の国から、日ごとに何百人と飢えて死んでいく貧しい人々に思いをはせることは難しい。しかし、この世界の現実に無知であるという、自己の精神の貧困を、われわれ日本人は、もっと羞(は)じるべきではないか。