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「自灯明」の心で生き抜いた半生

2008年2月2日付 中外日報(社説)

・自灯明ほんのり照らし死者も出るリウマチ薬を飲みつつ生きる

昨年末、京都市在住の女性が『自灯明』と題する歌集を出版した。収載歌は百一首。カラー刷り地模様の紙を使った、小ぶりだがしゃれた感じの一冊だ。釈尊の遺訓「自灯明法灯明」=自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ=を想起する。著者の小野承子さん(72)は、まさに自らをよりどころに、半生を生き抜いてきた。歌集は、その率直な記録である。

・地図よりは消えて久しき満州は母には異国われには祖国

日本が中国東北部を占領して「満州国」と称した時代があった。多くの日本人がその地域へ移住した。承子さんの父・倉塚俊さんもその一人で、日本の国策会社、南満州鉄道(満鉄)に勤務し、あの町からこの町へと、十回近い転勤を重ねた。昭和十年、北京寄りの承徳で生まれた長女を、地名にちなんで「承子」と名づけた。

大陸では、どこにいても高梁畑の向こうに赤い夕日が沈む。承子さんにとっては、そこが生まれ故郷なのだ。だからその故郷を、歌集の中であえて「満州」と呼んでいる。

・われの手を握り締め母を頼むよと征く父の目に涙の光る

昭和二十年五月、三十七歳の俊さんは国民兵として現地召集された。関東軍が南方戦線に移動し、がらあきになった「満州国」を、軍経験のない四十歳前後の"老兵"に守らせようとする"泥縄作戦"だ。三ヵ月後に侵入してきたソ連軍の前に寄せ集め部隊は、なすすべもなく崩壊、俊さんは後退途上で死亡した。

入隊を前に俊さんは、満九歳の承子さんの手を握って言い残した。「お前は一番上のお姉ちゃんだ。お母さんや弟妹たちを、くれぐれも頼むよ」と。

・炊(かし)ぐ水汲み上ぐる坂に月見れば天秤棒の肩にしなりつ

母・と志子さんは、五人の子を連れて帰国した。生まれて間もない末妹の文子ちゃんは、帰国直後に死亡した。それを悲しむいとまもなく、厳しい生活が襲いかかる。

島根県浜田市の郊外の、亀山神社の裏山にある、古い武徳殿を仕切って、引き揚げ者約十家族が住みついた。承子さんは小学生の身で土木工事を手伝い、家族のために水くみをした。腕相撲では誰にも負けないほど、たくましくなった。小学校の卒業式では校長先生が、承子さんのため特に「善行賞」を授けてくれた。

・中学の修学旅行教室の窓辺に一人自習をするも

小学校の修学旅行で、と志子さんがお小遣いを百円持たせてくれた。百円の重さを知る承子さんは、十円使っただけで、残りを母に返した。中学校の修学旅行には参加せず、承子さんの少女時代が終わった。

・住み込みし洋裁店の屋根部屋の柱に残る吾が打ちし釘

周囲から勧められて高等学校に進学したが、経済的に早く自立したかった。京都に住み込みで働ける洋裁店があると聞き、退学して洋裁の技術を学んだ。やがて右京区で染色業を営む小野正雄さんと知り合い、結婚する。気の合う知人と短歌を学び、現在は有力結社「水甕」に所属する。

人生の"実りの時期"を迎えた承子さんを、病魔が襲った。リウマチと診断され、きつい薬も飲まねばならない。その述懐が冒頭の一首だ。自らをよりどころとする承子さんの闘いは、なおも続く。

歌集を送って真っ先に返事をくれたのは、浜田市の武徳殿で生活をともにした"お姉ちゃん"だった。神奈川県からの文面は「承子ちゃんの歌は、つらい思い出を詠んでも光を感じるものがある。歌集を私の宝物にします」とある。引き揚げの苦労談が昔話になりかけた昨今、この歌集が歴史の証言の一つとなることを期待したい。