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仏教に拮抗した隋代の道教勢力

2008年1月29日付 中外日報(社説)

数百年に及んだ分裂の時代に終止符を打って南北中国の統一を成し遂げた隋王朝。その隋王朝の創業者である文帝楊堅は、誕生から十三歳に至るまで尼寺で養育されたという生い立ちからもうかがわれるように、仏教との因縁浅からざる天子であった。

わが国の推古天皇の十五年(六○七)、隋の第二代皇帝煬帝の大業三年に派遣された遣隋使が、「日の出(い)ずる処の天子、書を日の没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」との文面の国書をもたらして煬帝の不興を買ったことは有名だが、渡海のそもそもの目的について使者はこう語っている。

「海西の菩薩天子重ねて仏法を興さると聞き、故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ばんとす」

ここで「海西の菩薩天子」といっているのは煬帝ではなく、むしろ文帝を強く意識に上せてのことであろう。

その文帝が「重ねて仏法を興し」たというのは、楊堅三十四歳の五七四年に前王朝の北周の武帝によって仏教を弾圧する廃仏が発動されたにもかかわらず、新たに隋の時代を迎えて仏教が再興されたからにほかならない。唐初の道宣は、その著書の『続高僧伝』の義解篇の論において、隋の文帝の仏教史上における功績を次のように称揚している。

「隋の文帝はわれこそが仏法を担うのだと自覚し、仏の教えの弘通に専心した。開皇年間(五八一六○○)の初め、盛大に仏教寺院を建立し、僧衆のいるところにはすべて彼らのために寺を設け、あれやこれやの修行者を招いてあまねく都の長安に集めさせた上、彼らの中の成績優秀な者を自らランクづけた。……毎日、御殿に登るたびに、その坐に七人の僧を列ね、さまざまの経典を転読させ、また仏教の教理を開陳させた。帝は万般の政務に目を通すかたわら、正しい仏法を味わったのである」

しかし、われわれは同じ『続高僧伝』の護法篇の論に次の記述があることにも注目しなければならない。「有隋の御宇するや深く釈門を信ぜしも、兼ねて李館を陳(つら)ねしは恒俗を収めんが為なり――隋王朝が天下を統治すると、深く仏教を信仰しはしたものの、あわせて道観を配置したのは俗世間の人心を収攬せんがためであった――」

道教寺院である道観が「李館」と表現されているのは、道教では李を姓とする老子を重要な神格として崇めていたからであるが、それはともかくとして、道宣がこのように述べているのは以下の事実を踏まえてのことである。

隋王朝創業直後の開皇二年(五八二)、漢代以来の歴史を有する長安城の西南十三里の地に大興城と呼ばれる新都が造営され、大興城は唐代に至って新たに長安城と改称されるのだが、その大興城を南北に貫く中心軸の朱雀街を間に挟んで、東側の靖善坊には官立の仏教寺院の大興善寺が、西側の崇業坊には同じく官立の道観の玄都観が建設された。

このように都の大興城に仏教の寺院と道教の道観とが東西の対照の位置に配置されただけではない。江南の陳王朝を滅ぼした開皇九年(五八九)以後、揚州総管として揚州(江蘇省揚州市)に駐留した文帝の第二子の晋王楊広、すなわちやがて煬帝となる人物も、やはり『続高僧伝』義解篇の論などが伝えているように、慧日と法雲の二仏寺に沙門を、そして玉清と金洞の二玄壇に道士を招致した。玄壇とは道観のことである。

楊広は天台宗の宗祖である智者大師智顗にいたく帰依し、開皇十一年(五九一)には智顗から菩薩戒を授かって総持という法名を与えられたにもかかわらず、やはり道教に対する心配りを忘れはしなかったのである。

このように隋王朝が仏教と道教を対等に扱ったことについての道宣の見解は、「恒俗を収めんが為なり」というものであった。いわば慎重な配慮に基づく宗教政策上の措置にすぎなかったというわけだが、しかしながら、このような措置を講じなければならないほど、道教は仏教に充分に拮抗できるだけの勢力を誇示していたことを知らなければなるまい。