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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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日常的な宗教心から新たな価値の提唱を

2008年1月12日付 中外日報(社説)

日ごろ、社会の変化の激しさを思う機会は多いが、新年を迎え、社会の動きを振り返ると、われわれが激動の時代に身を置いていることをあらためてしみじみと感じる。平成二十年もそのような状況の延長上にあることだろう。

歴史が始まって以来、人類は競争という闘いを休止したことはなかった。それはさまざまな形で今も続いている。昭和二十年、廃虚の中で敗戦の厳しい現実に直面した日本国民ではあったが、熾烈な国際競争の中で、戦後六十三年、紆余曲折はあれ豊かな社会を築き上げたことを思うと、よくぞその苦難に耐えたものだと驚嘆するばかりである。

今、地球全体が経済的自由競争の思想のもとで大きく動いている。現代社会はかつての社会基準をすべて見直し、自由な競争のもと形成される新基準によって、新たな社会づくりに向かおうとしているとみることができる。しかし、この自由競争という名の闘いは至る所で社会的不整合を発生させている。

日本はインフラの整備が進んで一見快適な社会が実現し、福祉充実が叫ばれ、平均寿命も大幅に延びたが、都市にはネットカフェ難民という新たな貧困層が登場した。超高齢化社会は、肉親の介護にまつわる新たな悲劇を生み出し続けている。

大都市の百貨店には福袋を求める人の長蛇の列が続くが、地方都市へ行けば古くからあった商店街が見事なまでに解体しているありさまを目の当たりにさせられる。"大食い"を売り物にするテレビ番組が象徴する飽食の時代は、食糧自給率という裏付けを持たない。一歩間違えば飢餓が待ち受けている可能性さえないとはいえない。タイトロープの上で戯れているようなものだ。

巨視的にみると、噛み合わない大きな歯車が回る時にたてるような不快な軋(きし)りは、時代の転換期には繰り返されてきたに違いない。ただ、実際にその中に生きる者の立場からすれば、地に足がついた穏やかな生活を願うこと切なるものがある。

とはいえ、そうした騒がしい表層ばかりに目を奪われることなく、われわれの周辺をながめてみると、このような時代にも、穏やかに生きている普通の人々が数多くいることにあらためて気づかされる。そして、伝統文化や宗教的伝統がそれらの人々の毎日の生活のよりどころとなっていることが少なくない。

伝統仏教が社会の動きに追いつけないでいる、といった批判は頻繁に聞くし、それは全く事実としか言いようがないが、社会の急激な変貌に取り残されがちな人々にとって、その変化に同調し、時には先んじるようなものが、必ずしも心の支えになるわけではないだろう。

惑星の軌道は遠心力と求心力のバランスで保たれ、安定した楕円を描く。比喩としては、伝統的な文化・宗教は求心力に当たるといえるだろうか。伝統宗教のこのような役割については、宗教者自身がもっと自覚してもいいように思われる。

むろん、これは宗教が時代から超越し、時代の課題に無関心でいい、という主張ではない。宗教は時代の中に生きているし、それぞれの時代の中以外に、生きた宗教はないのだから。そもそも、宗教自体、時代の課題に対して、新たな価値を社会に対して提唱してきた。その歴史的事実はあらためて指摘するまでもなかろう。

宗教の社会的位置・役割は歴史的に変わりつつあるが、宗教的価値を歪めてもなお、時代の価値観に追随する必要があるのだろうか、と自問しなければならない状況に対しては、あらためて原点を振り返ることを強調したい。

新年に当たり、極めて平凡な提案ではあるけれど、日々の穏やかな生活を支えるため、見失われつつある日常的な宗教心をよみがえらせることに努めようではないか。その基盤に立ってこそ、宗教が社会の変化に対して提唱できる新たな価値が見つかるのではないか。