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愛誦される歌がなぜ少ないのか

2007年12月13日付 中外日報(社説)

「現代短歌は、なぜ多くの人々から愛誦されないのでしょうか」。最近ある席で、歌人の馬場あき子さん=歌誌『かりん』主宰=が問いかけるのを聞いた。その答えはおいおいに記すことにして……。

戦争が終わって、言論の自由が保障された六十余年前、全国各地で出版活動が盛んになった。職場でも、地域でも、学校でも、同人雑誌的なものや、新聞の形をとったものが、続々と印刷された。パソコンも、ケータイもなかった時代の日本人は、小説やエッセー、論文や詩歌などを、ひたすら手書きした。

用紙は、粗悪な仙貨(仙華)紙=せんかし=であった。もともと仙貨紙は、書や日本画に用いる上質の紙のことなのだが、戦後はなぜか、裏が透けて見えそうな悪い紙にこの名が付けられた。活字を一本一本拾って組み上げた活版印刷もあったが、謄写版またはガリ版と呼ばれる印刷が多く、写りが悪くて判読しにくい出版物も多かった。

素人の編集だから、スペースの一部に空白ができることがある。そんな場合の対策として、同人が詠んだ短歌や俳句で埋めることがあった。俳句より、字数の多い短歌の方が、埋め草には適していた。

男性が編集する時には、石川啄木の「……われ泣きぬれて蟹とたはむる」や、若山牧水の「白鳥は悲しからずや……」を連想させる作品が多かった。女性が編集する時は「……今宵会ふ人みな美しき」の与謝野晶子調のものが目立った。あのころの日本人は、男女ともそれぞれに、有名な作品を"愛誦歌"として、しっかり記憶していた。

筆者は戦後、旧制工業専門学校(高等工業学校が改称したもので、現在の大学工学部)に入学したが、理科系の学校でも文芸活動は盛んだった。コンピューターグラフィックなどなかった時代だけに、機械科や電気科は製図に時間をとられることが多く、同人誌の編集を引き受けるのは、いつも応用化学科と決まっていた。啄木調の短歌が埋め草に使われた。

大幅な国語改革が行なわれたのは、終戦の翌年、昭和二十一年十一月だった。それまで使われてきた歴史的仮名遣(旧かな)に代わって現代仮名遣(新かな)を使うこと、漢字は千八百五十字の当用漢字だけとすること、などが決まった。各新聞社が直ちに新かなと当用漢字の使用を決めたため、国民に深く浸透していった。国語の教科書からは文語体表記の古典の教材が姿を消した。

国語改革は、短歌や俳句にかかわる人々には、大きなショックだった。いずれも文語表記で、旧かなによって作品を作ってきたからである。

それに加えて、桑原武夫氏が唱えた「第二芸術論」が追い打ちをかけた。これは短歌も俳句も、所詮は第二義的な文芸であって、遠からず滅ぶ運命にある、という説だ。歌人や俳人の中には、希望を失う向きもなくはなかった。

しかし短歌・俳句は、たくましく巻き返した。口語的な表現をとるもの、新かなを使って詠む人が増え、一部の新聞では短歌欄をすべて新かな表記に統一したほどだ。

ここで最初の、馬場さんの問いかけに戻ろう。馬場さんは言う。「短歌は滅ぶどころか、ますます盛んになっているようにも見えます。けれども戦後に詠まれた現代短歌で、万人に記憶され、愛誦される作品は、極めて少ないような気がします。歌を詠む者が、何か落としもの、忘れものをしたからではないでしょうか」。そして馬場さんは、今こそ歌詠みは古典に返って学び直すべきだ、と提唱する。

宗教の場でも多くの人の心を感動させる説教がめったに聞かれない、との声に接することがある。馬場さんの言う「古典」を「祖師の声」と置き換えることはできないだろうか。