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成道会に思う

2007年12月8日付 中外日報(社説)

今年も仏教徒として最も祝福すべき十二月八日がやってきた。この日をもって三十五歳のシッダルタ太子が正覚を成就し、めでたく「仏陀」(目覚めたるもの)となられたのである。

もし、人類史上においてこの一事実が起こり得ていなかったならば、この人間世界に仏教というものは、たえて存在しなかったのであるから、一人の求道者シッダルタ太子の「成道」は、キリスト教的にいえばまさに人類史における「歴史の原事実」という意味さえ持つであろう。

ただこの原事実は、キリスト教で神の子イエスの誕生を、永遠の受肉という不合理な事実として、各自の信仰を通して證しするのとは対照的に、仏教徒の一人ひとりが、自分において追体験しなければならないのである。

禅の立場からいえば、仏教徒である者は生涯のうちにおいて、必ず仏陀と同じ「覚り」を体験しなければならない。覚りを仏陀だけのものとして、この日が来れば「成道会」の法要をして祝っておればよいというものではない。

いわば仏教徒は成道会を、「仏道無上誓願成」という誓願の再確認の日としなければなるまい。仏道は無上であり、凡夫の身ではとうてい到達不可能なものであろうけれど、少なくとも仏の道を、この自分も生涯のうちに成就しなければならない、という誓願を各自が新たにすること。そういう意味で仏教徒は、この日をいたずらに仏の成道をたたえるばかりでなく、みずからの仏道達成への思いを新たにする決意の日としなければならないであろう。

言うまでもなく仏教は、悟りを究極のものとして"執著"することを厳に誡めている。むしろ『華厳経梵行品』が、「初発心の時、便ち正覚を成ず」と説いているように、仏教徒が「真に」成道の願を発すれば、その瞬間にすでに正覚は達成せられると教えているのである。成道会はこうした意味で、仏道成就の「誓願を立てる日」ともいえるであろう。

ともあれそのような意義のある日が、今年もまたやってきた。全国の臨済宗専門道場ではこの朝、多くの雲水たちが老師とともに本山の成道会に出頭し、わがことのように仏の成道をたたえたことであろう。けれども彼ら雲衲の多くは、不眠不休の一週間にわたる「臘八大摂心」(ろうはつおおぜっしん、十二月一日の朝から八日の朝までを一日の如く、横にならずに坐禅を続けること)を終えて、今年もまた正覚の歓喜を味わうことができずに終わってしまったことを、人知れず慚愧していることであろう。

昭和の初めごろ、南禅寺僧堂で臘八摂心の円成を告げる合図の「板(はん)」が、東山に鳴り響いた時、あの高い山門の楼上で坐禅を続けていた一人の雲水が、「待ってくれー」と叫びつつ、大地に向かって身を投じたという言い伝えがある。故に今でも南禅寺僧堂では、最後の一打を打つことを止める習いがある。

たとえ結果はどうであろうと、人間として正しく生きたいという願いを持って、毎日を生きることは尊いことである。「結果は自然に成る」とは、すでに達磨の説くところであった。それにもかかわらずわれわれは、どうかすると結果を求めて行動することが当たり前になっている。そういう行動はつねに動機不純であって、よい結果を伴うことはないであろう。

仏陀の成道を祝う「成道会」も、結果としての大覚を讃歎するにとどまってはなるまい。この日を契機として、若き日のシッダルタが何故に出城を決意するに至ったかという、発心の動機にまでさかのぼらなければならないであろう。そしてシッダルタの撞着した人間存在の不合理についての根源的な懐疑を、自分のものとして受け取り直す日としなくてはならない。

さもなければ成道というものが他人事になる。仏教は何といっても、一人ひとりの生きる道の探求である。その意味でも、仏教は「仏道」でなければなるまい。そういうことを、成道会を迎えた今、痛切に思うのである。