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帰国後に学んだ万次郎の日本語

2007年12月4日付 中外日報(社説)

いささか信じがたいことだが、あのジョン万次郎は遭難から十年後の嘉永四年(一八五一)に日本へ帰って来た時、日本語がほとんど話せなかったそうだ。帰国上陸に立ち合った琉球王国(沖縄県)や薩摩藩(鹿児島県)の役人の中には、万次郎が果たして日本人であるかどうかを疑った者もいたという。

それというのも、万次郎が十四歳まで育った土佐中ノ浜(現・高知県土佐清水市)は、四国西南端の足摺岬に近い辺地で、方言の訛(なまり)がきつい。学問や文化に接する機会もないままに育ち、漁船に乗り組んで出漁、遭難したのだから、日本語の語彙(ごい)が乏しかった。

しかしもともと、利発な少年だったらしい。鳥島に漂着していた万次郎らを救った米国捕鯨船のホイットフィールド船長は、万次郎の才能を見抜き、東海岸マサチューセッツ州フェアヘブンの自宅に連れ帰って、英語の読み書きや航海術の勉強をさせた。米国で初めて文字を学んだ万次郎にとって、英語が事実上の母国語になったのは、無理からぬことだろう。

鎖国時代の日本は、たとえ遭難した者でも、外国へ渡った場合は罪人扱いされた。幸いなことに幕末の日本は、相次ぐ黒船の来航に対応するため、外国の事情に明るい人材が求められていた。米国の捕鯨船で船長格の働きをして、世界各地の港での見聞を重ねた万次郎は、貴重な存在だった。士分に取り立てられ、まず土佐藩、次いで幕府に出仕を命じられた。

だが、肝心の日本語が話せないでは、何の役にも立たない。幸いなことに、高知の城下に河田小龍という人物がいた。画家として知られる小龍は、学問全般にも通じていた。土佐藩の重役・吉田東洋は小龍に、なんとかして万次郎の海外知識を聞き取ってほしいと依頼した。

三歳年長の小龍は万次郎を自宅に寄食させ、寝食を共にしながら、万次郎との対話に努めた。小龍が日本語の読み書きを教え、逆に万次郎は英語を教える。もともと小龍にはオランダ語の知識があり、英語の表現にすぐなじむことができた。寺子屋に通う機会もなく育った万次郎は、小龍によって日本の言葉と常識を身に付けた。

二人の交流がはかどった理由の一つに、双方とも図面や見取図で説明する能力に優れていたことが挙げられる。日本にはまだ知られていない機械のことも、二人の絵心の合作で、詳しい図面に描かれた。小龍は二人の対話記録を『漂巽紀略』という書物に著わした。巽=東南の海に漂流して見聞した記録というこの書に啓発された人々の中に、坂本龍馬もいた。同書には大統領を入札(選挙)で選ぶ米国の民主主義も説かれていた。

万次郎は安政七年(万延元年=一八六〇)幕府が米国に派遣した咸臨丸に乗り組んで渡米した。身分の低い万次郎の乗船に反対する向きもあったが、軍艦奉行の木村摂津守や、遣米使節補充員の勝海舟らが強く推薦し、従者として随行することになった。

咸臨丸は日本人の力だけで太平洋を乗り切ったと伝えられているが、実際には荒天の時、便乗していた米海軍の軍人の助力を受けたともいう。万次郎が捕鯨船を操船した技術を生かす場面があったかどうか。少なくともその語学力により、日本人と米国人との間の意思疎通に大きな働きをしたことであろう。

元参議院議員の平野貞夫氏は、万次郎の生地と同じ土佐清水市の出身で、このほど万次郎の功績を『ジョン万次郎に学ぶ』(イプシロン出版企画)という著書にまとめた。同書の中で平野氏は、万次郎の心の支えになったのは、生家に近い四国第三十八番・金剛福寺を中心とする密教文化と、在米中に触れたユニテリアン教会の博愛心であったと記している。