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食品偽装に思う

2007年12月1日付 中外日報(社説)

大量に輸入される安価な中国食品の安全性に関する問題が多々取りざたされたのは少し前だった。その光景は過度の農薬使用や汚染土壌などが問題化した、一時代前の日本の来し方を彷彿させるものでもあった。それと同時に、中国に限らぬ食品の国際価格の低さと輸入依存が日本の農水産物の生産システムに深刻な影響を与えていることにも、われわれはあらためて気づかされた。真の意味の安全のためにも食料自給率は高めなければならないのである。

しかし、あたかもそれが飛び火したかのように、安全性を誇っていたかに見える日本の食品業界で次々と問題が発覚した。産地偽装であり品種偽装であり賞味期限偽装である。

食料生産から流通にかかわる業者たちが、少しでも安い物を少しでも高く、つまり利潤を多く上げたいと思うのは当然である。そのためにあらゆる努力をしているのである。時には顧客をひきつけるため安売りという奥の手を使うこともある。そのことは何ら非難される筋合いはない。ただしそこに悪意ある偽装があってはならない。それが商道徳というものであろう。

しかし現実には儲けるためなら何をしてもいいという考え方がやはり一部に蔓延していたのである。いつの時代でもこうした悪徳商法は後を絶たない。だからこそ産地や内容物の明示、賞味期限の設定などの法規制の制度が取り入れられたのだろうが、所詮は自主申告である。だから、それを信用するのが間違っているということになってしまうのだろうか。

昔は産地を書いた紙などは張られていなかった。賞味期限も記されてはいなかった。それで何か問題が起こっていたかといえば、何もなかった。われわれは顔なじみの末端小売業者をすっかり信用し、彼らも無知な消費者の信頼を裏切ったりはしなかったように思う。

かつては、古くなってしまった食品を母親たちはしげしげ眺め、においを嗅ぎ、時に首をかしげながら煮立てて味見をし、五感をフル活動させて最終判断をしていた、そんな光景を思い出す。われわれも仏壇の饅頭をカビを払いながら盗み食いしたものだ。古い人間である筆者は今でも食品に張り付けてあるシールなどには目もくれずに買い物をし、しばしば家人に叱られているのだが、なぜかと考えてみると、そもそも顔も知らない業者の証明など、どうやらあまり信用していないようなのである。

頼るのは自分の舌と胃袋だけという筆者はそれでいいとして、大量生産・大量消費、流通経路も複雑な社会で、食の安全性を担保する社会の約束事が守られないのはやはり深刻である。この際、虚偽・偽装の"膿"を出し切った上で、あらためて食品の安全性のみならず日本の食料問題全般について、国民すべてが考え直してみる必要があるだろう。

ところで最近の話題として、ミシュランの料理店格付けブックの東京版が発表されたと、マスコミは狂想曲を奏でている。フランスのタイヤ業者の宣伝パンフレットのいったい何がそんなに有り難いのだろうか。そのありさまに欧米コンプレックスにとらわれている日本人の姿を見て憂うつになるのは筆者だけではないと思う。

そしてこの一件も今の食品偽装の問題とどこか根底で深くつながっていることに気づかされる。つまり他人の評価に左右されて付和雷同し、そこには自らの判断はないのだ。

ちなみに、仏教では食料のことを「薬」と呼んできた。生命が維持できればそれでいい。本当の生き方のためには、食事を作ったりそれを食べることさえしないで済むならしない方がいい、というある意味で極端な考えをその基本に持っているのである。そのことを忘れてはなるまい。

「美食不中飽人喰」という言葉(『石門文字禅』)がある。つまりどんな美食も腹いっぱいの人間には不要である。そして一番の"美食"は"粗食"にある。そのことが分からぬ者はまだまだ人生の修行が足りないのである。