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お菓子やさんへいっちょく線に

2007年10月25日付 中外日報(社説)

「うちの家/こんなすきだらけの家やけど/夏になったら/つぶれかかったうらのへいに/むらさき色や空色の/きれいな朝顔が咲く◆うちの家/こんなにくさりかかった家やのに/夏になったらうら庭に/赤や黄のおしろい花も/うんと咲くので/びっくりするほど美しい」

昭和二十年代の大阪で創刊された児童詩の雑誌『きりん』に、兵庫県豊岡市立豊岡小学校六年生だった杉村柚子(ゆうこ)さんが発表した作品である。

九月六日付本欄で紹介したように『きりん』は、戦前の東京発行の『赤い鳥』を上回る二百二十の誌齢を重ねた。主宰者の故・竹中郁氏は政治やイデオロギーにこだわらぬ立場で、全国の児童が寄せた作品を指導し、のびのびとした作風の確立に努めた。この時本欄で紹介した大阪市立田辺小学校・山口雅代さんの作品には「強い感銘を受けた」との反響が相次いだ。ここに紹介する杉村柚子さんの作品も、山口さんに劣らぬ内容である。

「けさもお母ちゃんが/すいじ場で/せっせと人じんをすっている/うどん鉢にガーゼをかぶせて/大根おろしで/すっている/ときどき時計を/チラッと見ている/サクサク音をたてて/人じんがへたのほうまで/すりへってくるころ/指があかくそまっている/お父ちゃんがねまのなかから/じっとみている」

「人じんすり」と題した詩の一部である。

柚子さんのお父さんは、自動車会社の商業デザイナーだったが、狭心症のため心臓の血管が腐りかけ、医師に見放された。昭和二十年代のことだから、よい薬はないし、会社はもちろん退職である。お母さんは工場へ働きに出かけ、三人の子どもたちは内職で家計を助けた。

柚子さんは、新聞社に投稿した。「父と同じ病気になり、全快した人はいませんか。おられたら、治る方法を教えてください」。約二十人から便りが来た。その中の一通に「人参をおろした汁を毎日飲んだ」と書いてあった。人参なら、豊岡でも買える。お母さんは毎朝、出勤前に人参をおろした。柚子さんはその汁をお父さんの枕もとに運んで飲ませた。作品「人じんすり」は、一家の、不幸にめげない生き方の中から生まれた。そしてお父さんは、奇跡的に全快した。

その喜びを端的につづったのが「お父ちゃんが就職したんや」である。

「いつも横目で通る/お菓子やさんへ/いっちょく線に走った/「うわー」/すごいいきおいで/おかき、おせん、チョコレートが/重なり合って ぶっつかってきた/うちお菓子買うねん/お父ちゃんが就職したんや◆「いっぺんに寒なったな」/よその人が通っている/うち、ほこほこしている/お母ちゃんもお酒のんだみたい/お父ちゃんが就職したんや◆空がくもって/雨が降りそうに暗いのに/家の中が/百ワットの電球をつけたようだ/お父ちゃんが就職したんや」

お父さんが、飲みにくい人参のおろし汁をがまんして飲んだ期間、柚子さんたちは食べたいお菓子も食べずにいた。今の言葉で言えば"負け組"に相当するはずの杉村さん一家。柚子さんたち家族みんなの努力で"勝ち組"となった。

ここには表われていないけれど、柚子さんを温かく励ましながら、柚子さんと『きりん』を結びつけた、豊岡小学校の担任の先生の尽力もあったはずだ。何という名の先生だったのか。今も健在だろうか。

九月六日の本欄に記したように、竹中郁氏と『きりん』の業績を『きりんのあしあと』という冊子に集約したのは、大阪市在住の元小学校長、澤田省三氏である。澤田氏は、山口雅代さんや杉村柚子さんのその後を追跡したいという。学校だけでなく、お寺や教会の記録などが手がかりになるかもしれない。