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沖縄の「痛み」を伝えた松永さん

2007年10月18日付 中外日報(社説)

沖縄本島の最北端、はるかに与論島(鹿児島県)を望む辺戸(へど)岬に「祖国復帰闘争碑」がある。本土復帰が実現するまで、沖縄県民はこの岬で与論島に向けてかがり火をたき、復帰集会を開いた。碑は復帰後の一九七六年沖縄県祖国復帰協議会が建立したが、長文のその碑文を読んで考え込んでしまった。「米国の支配は傲慢で、県民の自由と人権を蹂躙した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声は空しく消えた」「一九七二年五月一五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和への願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された」

碑文から伝わってくるのは激しい怒りである。あらためて沖縄の歴史を思い、どこか後ろめたさに似た感覚にとらわれた。

沖縄では先月、沖縄戦での「集団自決」について、「日本軍強制」の記述を削除・修正した高校歴史教科書の文部科学省検定意見の撤回を求める県民大会に、主催者発表では十一万人が結集したという。

同省は、大会後慌てたように記述復活の検討を始めたが、「マグマが爆発寸前にあることを予感させる」(仲井眞弘多沖縄県知事)ような県民の行動がなければ、国は動かなかったはずだ。本土住民も無関心のままだったに違いない。

沖縄は大戦末期に「本土決戦」への時間を稼ぐための「捨て石」にされ、住民は日本軍によって否応なく地獄のような地上戦に巻き込まれた。その結果、十万人以上ともいわれる住民が犠牲になった。

戦後も米軍占領期を経て現在、日本全体の米軍基地の七五%を押しつけられ、日々さまざまな基地公害にさらされている。そんな沖縄の苦しみに本土側は長年にわたり無頓着過ぎた。その目まいがしそうな落差を招いた要因の一つとしてマスメディアの責任を考えてみたい。

例えば県民大会の翌九月三十日付新聞各紙の紙面である。地元紙の琉球新報と沖縄タイムスは、1面と最終面見開きで大会の会場写真をぶち抜きで扱った。中面も大半を関連の記事で埋め尽くし、県民の激しい憤りを伝えた。琉球新報は大会当日に号外を出したほどである。

一方、本土の全国紙はA、B両紙こそ1面トップと社会面を動員したが、C紙は社会面で写真付きの四段、D紙にいたっては第二社会面で写真抜き二段の扱いだった。記事の「量」が多ければいいというものではもちろんない。大事なことは、沖縄の「痛み」に真摯に向き合う姿勢だ。

「集団自決」の軍強制をめぐる論争は、数々の住民の証言などで決着がついていたはずだった。教科書も二十年間「強制」を使い続けてきた。文科省は今年三月、教科書検定審議会へ、唐突に修正を求める検定意見を示したが、政治的な意図さえ感じさせた。

沖縄では県民の怒りが募ったが、全国紙で見る限り、一部の社が「沖縄慰霊の日」(六月二十三日)をはさんだ一定の時期に数回の連載や特集記事を掲載したほかは、沖縄県議会が全会一致で二度にわたり、検定意見の撤回を求める意見書を可決したことを伝えた程度だった。C、D両紙は検定意見が公表された時には社説でそれを「妥当な対応」「評価したい」と文科省を支持し、県民大会後、国会で議論され始めると一転して「政治介入だ」と批判を始めた。

「集団自決」ばかりではない。沖縄戦をはじめ、基地公害など沖縄が抱える諸問題について、本土に住む者は多くを知らない。報道されないから、同胞の「痛み」への想像力も働かないのではないか。

先月二十日付本紙「女性のページ」に、父が「ひめゆり学徒隊」の隊長だったという松永英美さんの講演の内容が掲載された。「私は沖縄を背負って生きていく。(中略)。沖縄につながって生きることが私のせめてもの償い」という松永さんに感動した読者は多いだろう。

沖縄問題は、本土住民の心の問題でもあることを考え続けたい。