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「葬法の変容」

2007年10月11日付 中外日報(社説)

江戸時代前期の亮快(一六六一~一七四六)の『顕密威儀便覧』の「葬法」の項に次のようにある。

「水葬、これを江河に投ぐ。火葬、これを焚くに火を以ってす。土葬、これを岸傍に埋む。林葬、これを中野に弃(す)つ。鷲、虎の為に食はる。水林の二葬は此の土、古来稀なり。火葬は元興寺の道昭に起こり、土葬はもとよりなり」と。

四葬については『根本説一切有部毘奈耶雑事』『釈氏要覧』などにみえる。林葬は野葬ともいう。

釈尊がクシナガラの沙羅林中で入滅したとき、この地のマツラ族によって金輪聖王古代インドの帝王の理想像の葬法に倣って火葬(荼毘)に付されたことは『大般涅槃経』に記されているとおりである。

今日、火葬はインダス文明のニール遺跡などにおける非アリアン民族の葬法に起源したことが知られている。ともあれ、仏教の場合、土着種族である釈迦族出身の釈尊の葬法が非アリアン系の火葬であり、釈尊の舎利を八分して各地に配分したことは分骨の風習がすでにあった証左であろう。

前掲書にわが国最初の火葬は道昭(六二九~七〇〇)であるというとおりである。道昭は入唐して玄奘三蔵(六〇〇~六六四)に師事した。

玄奘は火葬に付されたが、道昭が自らを火葬にするように遺言したのは玄奘の事跡を知っていたのかもしれない。

『古事記』の撰録者である太安万侶(生年不詳七二三)の円墳が昭和五十四年一月二十三日に奈良市此瀬町の茶畑で発見された。火葬にしたことも判明した。

亮快が指摘しているとおり、わが国では古来――縄文時代から――土葬であった。火葬が一般に普及するようになったのは第二次大戦の終結以後のことであって意外に新しい。

南米ブラジルなど日系人の多い外国では火葬が行なわれ、今日では火葬はカトリック教徒の人たちにもすっかり定着してしまった。キリスト教では遺体を傷つけずに、そのまま神のみもとに帰すという信仰上の理由から土葬にする習わしであったのだが。

さて、今日は散骨も極めてまれではあるが、行なわれるようになった。散骨は死者の遺骨を粉にして山野や海にまく葬法である。自然葬というのは前掲の林葬または野葬であって、死体を埋葬せずに野外の自然にさらしておく葬法であるが、これは散骨と混用されているようである。

中国の周恩来(一八九八~一九七六)は遺言によって飛行機で中国全土に散骨した。また、インドのインディラ・ガンジー(一九一七~一九八四)は暗殺されたが、同じく飛行機でヒマラヤ地方に散骨した。

散骨は葬儀の仕方が異なってきたのともかかわりがあるようである。葬儀は近親者のみで済ませ、お別れの会は後日行なう。またはお別れの会だけであるのは無宗教葬と呼んでいる。けれど、どのような儀礼にせよ、故人を追悼し冥福を祈るのはすべて宗教的な行為であり、宗教的な心情の表現でなければならない。無宗教ということはあり得ない。もし無宗教であれば葬ではない。それは故人を物と同じように遺棄するだけのことである。

また、いわゆる無宗教葬には大きな問題が隠されているようである。例えば、菊の花一輪を供えて永訣するというやり方である。確かに葬儀の費用はかからないのかもしれないが、この時点で生者と死者との関係は断絶してしまう。

仏教の立場からであるが、仏教には年回(年忌)法要がある。三十五日忌、四十九日忌、百ヵ日忌、そして一周忌、三回忌と年回を重ねて三十三回忌で弔切り(問切り)になる。あとは五十回忌、百回忌と五十年ごとの年回である。

親族会議を開いてもなかなか集まりにくいが、法事のときは全員集合すると、よく聞く。年回は故人を偲び生前の恩誼を謝して自らの生き方のありようにも深く思いをはせる、またとない好機だといってよいであろう。いつまでも生者と死者との目に見えないつながりを確かめることもできるにちがいない。

ところが、どうだろう。善しあしは別としても菊一輪だけで故人と離別してしまう現代の葬法は世知辛い世の中をよく映し出しているように思われて仕方ない。

葬法考現学の対象となるのに充分だといってよいであろう。