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伝統を形にする努力

2007年10月4日付 中外日報(社説)

芸術の秋を迎えて、世界から芸術家が来日し、美術館には世界的作品が展示され、われわれの目を楽しませてくれる。国立博物館などが独立行政法人化し、PRにもことのほか熱心であるせいか、あらためて日本が芸術文化を享受するには恵まれた国だと思い知らされる。

世界的に著名な芸術家のつくりあげる華麗な芸術世界にも、その裏には言いしれぬ地味な努力があるのだろう。他方、伝統工芸展などを見ると、実に多くの方々が静かに伝統の技を継承し、日夜精進していることを教えられ感激する。

名人級の工芸家は、まずカンナを磨くことにほとんどの時間を費やしているのだという。作品に取り組む前の、こうした作業があって、一枚の皿、一枚のお盆、小さな箱に言葉に尽くせぬ美をもたらす。

生活者にとっては壊れにくく、取り扱いに便利なものが有用だが、日用の当たり前の品々の意匠が芸術化されるというのは、心の豊かさ・感性の奥深さに、安住する境地を求めるためであろうか。

工芸家の中で経済的に恵まれている人は決して多くない。黙々として経済効率に乏しい仕事に打ち込む人が大半である。筆者の知人は、伝統工芸で名のある人で、芸術大学の非常勤講師として後輩の教育にも当たっているが、その暮らしは決して楽なものではないようだ。

マスコミの表舞台とは縁もなく、ひたすら伝統工芸の道に打ち込む方々が日本国中で作品の制作に励んでいる姿を思いめぐらすと、宗教者としても共感を覚えるのである。

ところで、最近出版された『禅の世界』という写真が多数掲載された大冊を開いて、仏教の修行の歴史にあらためて驚嘆した。坐(ざ)・立(りゅう)・行(ぎょう)という修行は、日本仏教ではほとんど本来の意味から離れ、形式でしかないが、今なお、インドには「ひたすら坐るだけ」「ひたすら立ったまま」「ひたすら歩くことをやめない」「十年間、言葉を出さない」などの修行者が現実に存在するという画像を前にして、ただただ圧倒されてしまう。

著者代表の奈良康明氏は序文の中で、「禅」はさまざまな文化状況の中で、多様な様式の広がりを見せながら維持されていくという文化史観を語っているが、「禅とは通常の自我的な世俗を超えた普遍的な真実に出会う、高次の宗教的レベルの出来事であるといっていい」という言辞にも強い感銘を受けた。

社会内の存在としての宗門は、教団維持に関心が集中するのはやむを得ないであろう。しかし、宗門が存在するというその根底には、こうした「高次の宗教的レベルの出来事」が存在する。否、それがなければ、宗門はそもそも無用である。そして、そこで出合う「普遍的な真実」こそが宗門の真の活力となり、さまざまな宗教文化を花開かせてきた、といえるだろう。

ただ一部のエリートだけでなく、青史に名を残すことのなかった多くの先師たちが、そうした次元からの力を教えに反映させ、その次元からエネルギーをくみ取って宗門を経営してきた。それは伝統を継承し芸術作品として結晶させる工芸家の営みと、どこか通じるところがなくはない。現在の宗門を担う人々も、自分たちがそうした先師の使命を受け継ぎ、現実の中に生かす責務を持つことを忘れてはならないだろう。

祖師の行業が単なる昔話になったら、教団の生命力も社会的存在意義も終わりを告げる。昨今、社会を騒がす宗門と金をめぐるいくつかのスキャンダルも、教団のルーツとその継承者の努力を忘れていることからくるのではなかろうか。それは一部の問題ではなく、宗教界全体にとって危険な兆候であると考えるべきかもしれない。