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津軽海峡越えた半世紀前を思う

2007年10月2日付 中外日報(社説)

北海道の函館港と本州の青森港との間には、かつては青函連絡船が運航されていた。その函館と青森との間に、九月から新たに新高速フェリーが就航したという。所要時間は約一時間四十五分というから、JR津軽海峡線特急列車の約二時間よりも早い。

"内地"と比べると、北海道の宗教風土は、どことなくおおらかである。キリスト教徒が神社界と、とげとげしく対立することも少ない。アイヌ時代のコロボックンクルの神が、いたるところに潜んでいるようにも感じる。

北海道で生まれ育った筆者が、大学進学のため本州へ渡って来たのは、昭和三十二年だった。ちょうど半世紀前のことだ。もちろん津軽海峡は国鉄(当時)の青函連絡船で越えた。所要時間は三時間五十分前後だったと記憶する。入学したのは京都の大学で、北海道とはかなり気風が違う土地と感じた。

京都から帰郷する時、奥羽本線の列車が秋田を過ぎて大館あたりにさしかかるころ、車掌が乗客に、住所氏名を記入する用紙を二枚配り、その一枚を回収した。一枚は函館港で渡す。その紙が、青函連絡船を利用する客の乗船名簿になった。

記入用紙を配布しては回収するという手続きは、本州と四国を結ぶ宇高連絡船(宇野高松)にはなかったようだ。北海道という別天地へ渡るための、一つの儀式とも感じられた。

松本清張の代表作の一つである『点と線』は、昭和三十二年から翌三十三年にかけて、雑誌掲載された。筆者が本州へ渡ったのとほぼ同じ時期である。作中のアリバイ作りに、福岡と札幌の間を飛行機で移動するという筋書きがあったと記憶する。当時は、空の旅を利用する階層は限られていたから、飛行機を使うトリックが読者に新鮮な驚きを呼んだのだろう。筆者が北海道へ帰る時は、もっぱら青函連絡船だった。

青森から午後の便に乗船すると、函館に近づくころ夕闇が迫り、海と空の接するあたりに、無数の青白い灯が光り始める。イカ釣りの漁船である。その灯を見て「北海道へ帰って来た」と感じたものだ。

歌手・石川さゆりの歌う「津軽海峡冬景色」がヒットしたのは、昭和五十二年だったと記憶する。海の底に青函トンネルが開通したのは、それから十一年後の昭和六十三年のことだ。それと同時に、連絡船は廃止された。北海道へ渡るメーンルートは、空の便か、海の底の津軽海峡線に変わった。「ごらんあれが竜飛岬……」と口ずさみながら海上を眺める機会は、もはやあるまいと思った。しかしその後も、青森と函館の間には船の運航がねばり強く続けられ、今回さらに新高速フェリーが加わった。いわば"海の復権"というべきだろうか。

車で青森まで来て、フェリーで函館に渡り、また車を駆って北海道を移動するという行動パターンが広がったのかもしれない。鉄道と航空とが客を奪い合っていると聞いたが、シェア争いに新高速フェリーはどんな影響を与えるのか。青森と道南をセットにした新しい観光ルートが設定されるかもしれない。

それにしても、筆者が京都へ来た当時は、祇園祭の山鉾巡行のころ本格的な暑さが始まり、大文字送り火のころには涼しさが訪れ、秋の彼岸にはスーツにネクタイが普通だった。今年の京都では六月から酷暑が始まり、彼岸になお三五度近い暑さが続いた。北海道でさえ、道南ではつい先日まで、北国らしからぬ高温続きだった。

地球温暖化は、マイカーの増加が"押し上げ要因"の一つになっている。新高速フェリーの就航は、本州と北海道をより身近な関係とするものだが、地球温暖化を考える時、利用する人々の節度を期待したい。郷愁を感じながら、そんなことを考えた。