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宗教教育の提案を

2007年9月20日付 中外日報(社説)

「地球上の中で、文化を売るだけで一千年以上を生きてきた都市は、京都以外にはない/それは文化を家元制というシステムとお手前というマニュアルに仕立てて売ったからである。宗教を本山・支院制というシステムとマニュアルにしたからである(中略)/文化芸術をシステム化、マニュアル化できなかった都市は、滅びてしまう。ギリシャもエジプトもローマも遺跡を観光で売る以外に方法はない。中途半端な都市は生きられない」(小口基實著『庭と文化とその心』)

筆者はこの夏に京都での任を辞して郷里へ帰ったばかりだが、この意見には全く同感である。

前掲書の著者小口氏は作庭の世界的な権威である。十年ほど前から、わが国のアメリカナイズと伝統文化の危機が識者によって警告されてきた。著者は日本文化が最後まで残るのは仏教寺院だけである、と断言する。

また、次のようにも言っている。

「教育も、オーケストラやブラスバンドは編成されても、邦楽を授業で教えるということはない。英語の時間の方が古典の時間より多い。英語は読めても源氏物語は読めない/フォークの持ち方は教えても『ハシ』の持ち方を教えない。畳の上の歩き方を知らない(中略)/戦後のアメリカナイズは、そろそろ卒業で、日本の伝統にドッキングした文化が、次の世代には生まれるであろう。それを見届けたいと思うが残念である」(同)と。

京都の総大本山には名称はさまざまだが専門道場や専修学院などがあって、全国の地域寺院から修行僧として研鑽するためにやってくる。仏道修行だけではない。筆者も学生と起居を共にした経験があるが、起居動作つまり行住坐臥の四威儀は仏教では極めて重要で、これは「生活教育」といってよい。

まず挨拶の仕方からはじまって掃除のやり方、勤行の指導、食作法、接客の言葉遣いや敬語の心得、その他の日常作法を身につける実践教育である。

また、師弟関係における師に対する礼儀は帰依する心の生育である。茶道や華道も教育する。見習いというが、これらはすべて「見て習う」というわが国の伝統的な教育である。

教育基本法の改定は低次元的であって、現在のところ議論は四分五裂のようである。今日のわが国の学校教育は知育偏重主義であって、人格形成の全人教育ではない。新しい教育では知育、徳育、体育を三本柱とする、という。体育は柔剣道などの武道が取り入れられるようである。徳育については倫理道徳の教育ということになるが、宗教抜きの倫理道徳は現実において根無し草と言わざるを得ない。

ところで、僧院(僧堂)教育における全人教育の根幹は、宗教的感性の涵養にある。教学は教えられるが、感性は自分を磨いて体得するしかない。ここに宗教教育の本義がある。しかし、公教育における宗教の教育と僧院で実施する宗派の教育は、信教の自由、政教分離の立場から本質的に峻別して考えなければならない。そして、問題は宗教的感性の涵養は僧院教育のような宗派教育であればこそ最も効果的に行なえるという点である。

僧院(僧堂)では、徳育を含めた全人教育がまだ現実に生きていると思われるのだが、それを公教育にそのまま生かすわけにはいかないとしても、公教育という条件の中で全人教育を可能にするような具体性のある提案ができないものだろうか。

「誰でもよいから人を殺したかったから殺した」「人を殺すのがなぜ悪いか」と、加害者が開き直るような犯罪は増加する一方である。政財界その他の各界の不祥事が日常茶飯事になっている現代社会は異常だというほかはない。

罪悪の意識がすっかり消滅してしまったのは、倫理道徳の問題ではない、本質的にいって宗教的観念の欠落にある、と宗教者の立場からは考えるのだが、かといって、公教育について、単純な宗教教育待望論は問題を含んでいる。

戦前の教育、戦後民主主義の功罪を充分に検証した上で、あるべき宗教教育を宗教界から具体的に提案するべき時期は来ていると考える。