ニュース画像
叡南覚範門主からおかみそりを受ける参加者
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

「自己責任」では片付けられない

2007年9月11日付 中外日報(社説)

韓国のキリスト教徒のグループ二十三人がアフガニスタンの武装勢力タリバンに拉致された事件は、殺害された二人以外の人質全員が解放され終結した。「テロとは交渉しない」という国際合意のもとで、タリバンと韓国政府が直接交渉したことに国際社会の反応は複雑だった。

拉致されたのが医療・教育支援ボランティアで、国際協力と布教活動との関連も話題になった。すでにマスメディアでいろいろと報道されており、重複は避けるが、一つだけ考えておきたい。韓国で解放された人質たちが「自己責任」論に基づく非難を浴びている問題だ。

人質たちは七月の事件発生直後から、メディアで渡航自制を求める政府の警告を無視した行動が指弾され始めた。無謀な行動で政府を苦境に追い込んだ責任を問い、救出経費を自己負担させろという激しい非難が、とくにインターネット上で続いているという。

日本でも二〇〇四年四月、外務省の退避勧告を無視してイラクに入国した女性ボランティアやフリーのジャーナリストら五人が相次いで武装勢力に人質にとられた際、やはりメディアやインターネット上で「自己責任」論による激しい人質バッシングが起こったことを想起する。

筆者はメディアと政府が一体となった「自己責任」の大合唱に違和感を持ち、大学のジャーナリズムの講義の際に「自己責任は本来、人を傷つけるために使われる言葉ではない」として、こんな話をしたことがある。

「宗教や国籍・民族、組織など個人のさまざまな社会的立場に束縛されず、リスクはあっても自己の責任において主体的に判断、行動し、その結果も自己の責任で受け入れる。それが自己責任で、そうした個人の生き方を尊重し合うのが成熟した市民社会である」。一見、青臭いようだが、個人主義社会の欧米では定着した概念だ。

政府が退避勧告を出すような危険な所に行ったからけしからん、というのは感情論にすぎず、その結果、社会に迷惑をかけたというのなら「自己責任」論とは異なる論理で冷静に評価しないといけない。それを混同し、何でも自己責任で断罪してしまうと、例えば戦場報道によって戦争の抑止を訴えるジャーナリズム活動は委縮する。国際協力に携わるボランティアやNGOも含め、市民の多様な活動が制約されかねない。国民の保護が最重要の仕事である国の責任も棚上げされてしまう。

救出のための政府要員の渡航費などを人質に負担させろといった声が政治家からも出ていたが、明らかに行き過ぎだった。

皮肉なことだが当時のパウエル・米国務長官が「世の中を良くしようとして自己責任でリスクを冒す人がいなければ、世界は前に進まない」と、日本での人質バッシングを戒めて以降、非難は下火になった。

韓国人拉致事件では、身代金支払いの密約説が根強い。武装勢力相手の交渉は、きれいごとですまないことが多いのだろうが、現地でアフガニスタン難民の救援活動を続ける日本の青年からは次のような趣旨のリポートが大阪のNGOに寄せられた。

「今朝(八月三十一日)カブールで自爆テロがあった。テロ犯の家族にはタリバンから報奨金が出る。当地では拉致事件の身代金がそれに充てられると考えるのが常識。これが拉致事件の結果なのです」

以前から活動中のボランティアは、タリバンを含む現地人との間の暗黙のルールに従って行動している。韓国人グループは、そのルールを無視した形で、しかも集団で入り込んできた。ムスリムの習慣に反する女性の派手な服装など、人目につく行動が今回、指摘されている。

リポートは、その軽率さが多額の身代金授受を招き、新たな自爆テロにつながりかねないことに批判の目を向けている。地道な活動を続けるボランティアには迷惑な存在だったわけである。

人質バッシングには、韓国社会に強い影響力を持つキリスト教団体への反発もあるそうだが、最初に触れた国際協力と布教との関連も含め、熟慮しないといけない多くの宿題を、この事件は残したようだ。