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檀信徒の総力で村の歴史を記録

2007年9月8日付 中外日報(社説)

京の都から丹波越えの迂回ルートを潜行して鵯越へ向かった源義経。山々に柵を設けて抵抗する波多野秀治一族へ総攻撃をかけた明智光秀――歴史の舞台の主役や脇役は、この里の善導寺の甍をどのように眺めたであろうか。

兵庫県篠山市小多田(おただ)の集落約七十戸は、篠山城跡を囲む市街地から東南へ約二キロの山沿いに広がる静かな農村である。山すそに身を寄せ合うように並ぶ家並みを扇に見立てれば、要の位置にあるのが浄土宗西山深草派善導寺だ。ほかに目立った施設のない小多田で、寺は地域の文化センターの役割を果たしている。

その善導寺からこのほど『善導寺の里の歴史語り継ぐ暮らしと文化』と題する冊子が刊行された。A四判一六二ページ。ほかに折り畳み地図数枚付き。内容も体裁も堂々たるものだ。

小多田は純農村だが、昔から文化水準が高く、戦後も善導寺檀信徒の中から、小、中学校の校長や大学教授らを輩出してきた。それらの文化人が社会の第一線を退いた平成十一年、善導寺に立派な檀信徒会館が新築された。しかし仏事や法事のない日には、空き部屋になる。

「施設は、活用してこそ値打ちがある。毎月一回、ここへ集まって勉強会を開こうではないか」との声が上がり、翌十二年八月「善友会」が組織された。みんなが手分けして調べた郷土の歴史や伝承についての報告会を開くもので、年会費は千円である。「私が何も口を出さぬうちに、檀信徒の方々が自主的に進めてくれました」と加藤義康住職は言う。

では、善友会の人々は具体的に何をしたのか。まず地域の歴史の勉強である。弥生時代、古墳時代の昔からこの地には人間の生活が営まれていたらしい。古代には榛原郷または眞継郷と記された多紀の里の一角が小多田保と呼ばれるようになった。

この里の北側を東西に貫く街道は、京と西国を結ぶ交通路の一つで、源平や戦国の争乱が駆け抜けた。幕末に井伊大老が暗殺された時は、飛脚の群れが競うように西へ走った。西国の各藩の江戸屋敷が、幕閣の政変を一刻も早く国元に知らせるためだった。

その間に、小多田の地に住む人々は何を生産し、どんな生活を営んでいたかの研究も進んだ。こうした成果が、毎月の善友会の例会で発表された。善友会によって、地域の人々の大多数が郷土史家の役割を果たすことになった。

「この成果を一冊にまとめて、後世に伝えたい」という声が出てきた。加藤住職によると「小多田の暮らしが、あまりにも急激に変わりつつある」のが最大の理由だと言う。

バブル経済のころ、小多田をはじめ近郷の農地を買収して、ゴルフ場やリゾート施設を建設する話が持ち上がったことがある。だがバブルは鎮静化し、さらに阪神・淡路大震災の影響もあって、小多田の里は、昔ながらの姿を残すことができた。しかしそれは表面上の現象である。小多田の農業の内容は、大幅に変わってしまった。

ついこの間まで、田植えや稲刈りの農繁期には、善導寺に託児所が設けられたものだ。しかし今では、コンバインを使えば田の中で自動的に脱穀ができるようになった。主産物は米と丹波黒豆に限定され、もはや麦やナタネ、桑、綿などを作る農家はない。牛や羊や豚などの家畜も姿を消し、年中行事にも変化のきざしが見える。「今のうちに記録しなければ……この一冊は、私たちが子孫に残す遺書のつもりで編集しました=要旨」と善友会会長の清水一雄さんは記す。

寺院を足場に、檀信徒総がかりで地域の歴史を編集したのは、異例のことだ。善導寺が、地域とともに生き、地域になくてはならない存在になっているからだろう。