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| 時感断想 − 第59回 |
1、 精神修養の場 「法然を語る」ことの難しさ
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今年四月から一年間、NHK教育テレビ番組「こころの時代」で、法然上人について話をさせてもらっています。当初は、法然像を知恩院のお厨子から運び出して、現代日本を歩き回ってもらうという意気込みで臨んだものの、これがなかなか難しいのです。 スタジオでは、かっきり六十分の収録なので、後で編集が利かず、生番組と同じ緊張感があります。先日、六回目の収録が終わって、ふと思ったのです。「法然を語る」と言いながら、実はそこで語られているのは、私自身の「値打ち」にほかならないと。 この番組で問われているのは、法然の思想なんかではなく、それをどこまで深く理解し、正確に語り得るかという意味で、私自身の実力なのです。それはベートーベンの名曲を演奏して、その結果を問われるのが、タクトを振る指揮者であるのと似ています。 二、三度の出演なら、ゴマカシも利くのですが、十二回ともなれば、弁明の余地がありません。テレビの画面を通じて、私のこれまでの人生体験と学者としての見識が、情け容赦もなく丸映しにされているのです。これは、とても恐ろしいことです。 この番組には風景などの場面も使われることなく、ほとんどアナウンサーと私の二人が坐っている場面だけで終わってしまいますから、もし私の話に退屈すれば、視聴者は否応なく、チャンネルを切り替えることになります。 しかも運の悪いことに、「こころの時代」は今回からハイビジョン撮影に切り替わったので、私の髪型が少しばかり歪んでいても、あるいは前の晩に深酒して疲れていても、ぜんぶ克明に映し出されます。 半ば逃げ出したいような気分でいますが、かといって、逃げ出せるわけでもありません。私は私として、自分の宗教理解と人間理解双方における思慮の浅さを、そのまま曝け出していくより仕方ないのです。 テレビスタジオもまた、私にとって、ひとつの精神修養の場であることを痛感させられています。 |
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このページの最終更新日
2009年11月11日