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  時感断想 − 第52回

 1、    「私小説」の誕生        凡愚の自覚と他力思想


大河内昭爾

1、「私小説」の誕生
凡愚の自覚と他力思想

2、私小説の極北
自己の罪障暴く嘉村礒多

3、島田清次郎
文壇の寵児から孤立無援の境遇に

4、「写生」と「他力」
おのれの計らいを捨てる





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   日本文学科の教師になりたての頃、私は「近代文学における他力的発想」と題して、大学の紀要むけに評論とも論文ともつかぬ原稿を書いたことがある。近代文学の中心課題としての「私小説」を、〈自力〉〈他力〉という日本の仏教思考によってふわけしてみたかったのである。おのれの愚かさを肯定しながら、それを逆説的に自己主張しようという私小説の性格に興味を持ったからであった。
   私小説における主人公の告白の衝動がはじめから宗教的なわけではないにしても、おのれの愚かさを世間にさらけ出すことによって、自己弁明とも、逆に裏返しにした自己主張ともつかぬ情念をはらんだ屈折した自我を私小説は作品の重要な核としていた。
   世間を"俗"と捉え、それに反逆することで純粋な自我を貫通しようと試みたのである。それ故反世間的であればある程、反俗的純粋さとして独善的ともいえる自己充足の方向に転化されて私小説が誕生していった。
   題材はもっぱら私小説の主人公〈私〉の一見反俗的だが、世間からいえば愚行にひとしい内面を主題にしていたといえる。それが文学を長い間世間から隔離してきた独善的な要因ともいえた。
   私小説の題材の主たるものは反俗的なよそおいをした逆説的な自己主張というべきものであった。そこに各自の文章の芸 ・ といった修練を積んだ成果があって、読者を魅了する趣も否めなかったのである。
   私小説の凡愚の自覚と他力思想の交錯にはかねがね関心を持っている。風土的思考のうちに他力思想は根強く日本の文化に浸透してきた。日本人の土着思考としての自然との融合には、おのれを無にする方向がもともと根強く、必ずしも他力思想に限定されるものではないが、浄土真宗思想が急速に広く浸透していった経緯にはそこに見過ごせない受容の性格がひそんでいた。

(H21.2.17〜H21.3.10)

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このページの最終更新日 2009年03月11日