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| 時感断想 − 第51回 |
1、 兵戈か対話か 戒と憲法九条のこころ |
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このほど、クラスター爆弾の使用、製造の禁止をうたった条約に約百ヵ国とともに日本も署名したという。憲法九条の理念からみて当然の姿勢である。されど海岸線に囲まれている日本に敵が上陸したとき、何より有効にはたらく兵器として珍重されねばならないとの意見が軍事専門家の中には多いのも事実である。 かたや、〈攻撃された日本が、この不自然な理念(引用者注・武力は決して使用しないとする世界に例のない憲法九条の理念をさす)に従って反撃せず、そのために滅んだとしたらどうだろう(略)行為のありようは画期的なものとして人類史に永く語り継がれるはずである〉と後世の人類がかかる行為を評し「称賛するか馬鹿にして語るかわからないところがある」との長いスパンにたった指摘もある(池田晶子「人間自身」・『週刊新潮』平成十八年八月十日号)。 侵入攻撃者からわが国の同胞を守るに戈(武器)をもってか、対話でかと論争するとき、対話の余地などまったくない危機的場面にあっていったい何ができるか。まずは、武器で相手の出鼻をくじかねば侵略をほしいままにされよう。話しあいが可能となるのは次の段階になり、あくまでも二次的対応としての策となる。ここにクラスター爆弾保有が正当化される芽が生える。戈を優先する論者が勢いをまし、専守防衛を徹底する立場をとるとしても相手の生命を奪う暴力をふるうところに至らしめる。 だが仏教徒は、憲法九条が国家権力者に縛りをかけている以前に、憲法九条の有無を問わず「不殺生戒」によって殺傷の行為を禁止されていることを胆に銘じねばならない。したがって残された手段は説得、要求、許容、拒否、受諾、交換条件提示、その他考え得るあらゆる視点に立った言語活動以外の方策はなにもない。不殺生戒に悖(もと)らないよう石にかじりついてでも血のにじむ思いで苦肉の策を構築しなければならない。仏教徒に課せられた重い戒めである。テロ、暗殺による相手の抹殺からは何も生まれてこない自明の理に、かのエジプトにおけるイスラム過激派組織「イスラム集団」さえもさとり、一方的な武装闘争を停止、放棄を宣言するに至ったという。一条の明光に接するおもいがある。 |
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このページの最終更新日
2009年02月20日