|
<<ホーム>> |
|
| 時感断想 − 第50回 |
1、 濁世の目足 「法」が光を発揮の時 |
||
|
|
私の勤務する大学は西本願寺系の大学ですから各学部の一年生には必修授業として「仏教」という科目が一年間あります。初めは多少とまどいを感じているようですが、皆、神妙な顔つきで聞いています。 必修科目だからつきあっているのだと思います。さして興味がなく、いや全く興味がないといってもいい授業を九十分聞くのは修行みたいなものです。私の方も大変です。九十分それこそテーマとの格闘です。少しでも聞いてもらうために、大教室をすみずみまで歩き回ります。一週間で一番疲労するのがこの授業です。 しかし、おどろくことに学生は皆、それなりに聞いているのです。ある学生は「仏教がこんなに日常のことを説いているということに驚いた」と言いました。そうでしょう、彼等は親からも、保護者からも仏の教えなど全く聞いたことがないのです。 親は子どもを管理することばかり考え、早く帰って来い、勉強しろ、悪いことをするな等々の言葉をかけはしますが、それが今の子どもには全く届きません。また無断外泊しようが、何をしようが一切無関心という親が多いのも事実です。 子どもの問題であるよりも親の側に大きな問題があると私は考えます。そして、何よりもその根底にある「社会の崩壊」という問題に私たちは目を配らなければならないと思います。 私たちをとりまく戦争、環境問題、また格差の問題、貧困、非正規雇用、自死、無差別殺人といった現実は、いわば拝金主義に毒された、私たち人間がつくりだしたものです。この度の金融災害といわれるものも金銭のしもべとなり、金銭を目的化した社会がもたらした人災と言えないでしょうか。 今こそ、濁世の目足といわれる「法」(ダルマ)が光を発揮すべきときだと私は考えます。そこに、たとえ遠い道であるとしても私、家族、社会の回復がもたらされるでしょう。 |
||
|
|||
中外日報のホームページに記載されている記事・写真の無断転載を禁じます。
著作権は『中外日報社』に帰属します。Copyright2009,Chugainippoh
このページの最終更新日
2009年01月14日