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| 時感断想 − 第42回 |
1、 曲解された日本仏教 僧侶を「あの世の使者」視 |
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日本仏教が過去現在において、日本の歴史上または文化史上に大きな役割の一端を果たしてきたことは、恐らく多くの人々に異論のないところであろう。しかし今日においてはどうであろうか。歴史的かつ文化的に日本人が受け入れてきたように、より健全で親しみのある仏教の姿を将来的にも見ることができるかどうかは全く不確実であるともいわれている。そこで日本仏教の"いま"を今日的視点から見据え、今後の仏教のありようを考えてみたいと思う。 日本の仏教徒たちに、如何なるものが仏教なのかと尋ねると、その内容は一言では言い表わせないと答えるのが一般的であろう。一方、世間一般では、「仏教」といえば「葬式仏教」を直ちに思い浮かべるかもしれない。しかし一般の人々にとって、葬式における読経の意味を知り、仏教徒として粛然たる仏教の心を会得して葬儀に参じているかどうかについては、大いなる疑念を生じているのが昨今の仏教界全般に潜在している状況ではないかと、恣意的ながら思っている。 今日の日本社会では、僧侶に対する暗黙の常識がある。たとえば、僧服のまま病院の患者さんをお見舞いしてはいけないということである。それはなぜか。世間において仏教の僧侶は即ち、死者儀礼の司祭者として認識されているからである。つまり僧侶は、命あるもののために役立つ者ではなく、死にゆく人のために役立つ「職人」として理解されている存在だからである。 病院に入院しているとき僧侶が現われたら、当然ながら「自分はまだあの世に行く時ではない」と思い、あたかも「あの世の使者」でも現われたかのように嫌がる。この点に関して筆者が調査したところ、敬遠される対象は僧侶だけではなく、仏教に関する新聞や雑誌または経典すらも「縁起でもない」と強い拒否反応を示す対象となる。そのような仏教徒の姿には驚愕を禁じ得なかった。 このような社会現象は仏教本来の姿とは無縁のものである。仏教がいかに曲解されて根付いたものであるかは、真の仏教を少しでも学んだ人であれば一目瞭然であろう。 |
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このページの最終更新日
2008年03月18日