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| 時感断想 − 第12回 |
1、 仏教と「いのち」 「死」もまた、我らなり |
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「いのち」という言葉が飛び交うようになったのはいつのころからであろうか。「いのち」を粗末にし阻害する現代社会となって、「いのち」のうめき声を聞き取った人たちによって、「いのち」の危機が叫ばれ出したのはいつごろからであろうか。 「いのち」が価値のある「いのち」と価値のない「いのち」とに分けられた脳死による臓器移植が現実となり、バーチャルな世界での熱い血の流れない殺し合いが現実の世界に持ち込まれ、「なぜ人を殺してはいけないの」と子供から問われる時代になり、更には、クローン人間として「いのち」が代替え可能とさえなりつつあるといった、「いのち」に対するさまざまなアプローチが科学的な合理主義によってなされてきた。そのために、人間にとって「いのち」とは何かという基本的な問いが等閑にされるようになってから久しい。それが現代である。 最近になって教育の場でも「いのちを大切に」と言われだしたが、何となく他人事のような空虚さを感じるのは私だけであろうか。私の青春時代に、水原弘の「君こそわが命」という歌謡曲がはやったが、「いのち」が一人称で語られると、何となく生きる力がわいてくる。 ところで、仏教には「いのち」に相当する熟語はあるのであろうか。それについて、世親の『倶舎論』には、心不相応行法の一つとして「命根」があり、「体温や意識を保持する勢力で、寿命のことである」と定義されている。これが仏教の説く「いのち」である。言い換えれば、「生死するいのち」である。従って、仏教で説く「いのち」には生と死が含まれている。「生」のみが我らにあらず、「死」もまた我らなりである。 ところが、現代では、「いのち」は「生きる」ことだけを意味し、そこからは「死ぬ」ことが排除されている。私たちの「いのち」は必ず「死ぬ」のである、私の「死」は明日かも知れないことを学ぶとき、「いのち」 は他人事ではなく、一人称の事柄となるのではなかろうか。 |
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